第60章 花屋夫人
「噛まれるのは痛かったし、その後の痛みに悩まされる事もありましたが、夢中で乳を飲む貴方が何よりも愛おしかった。なのに、そんな事も忘れて私は......」
御母上様の目に涙が浮かんだ。
それは、信長様が確かに愛された証。
心が傷つくのは、愛を与えられ知っているから。
何も言えず立ちつくす信長様の手を両手で握りしめた。
「もう少し、信長様の幼い頃の話を聞かせてもらえませんか」
信長様は余計な事をと言わんばかりの顔で私を睨んで来たけど、ちゃんと愛されていた真実を、もっと聞いてもらいたかった。
御母上様に長椅子へと腰を下ろしてもらい、私たちはしばらくの間、信長様の幼い頃の話を聞かせてもらった。
「母上、そろそろ参りましょう」
信包さんが馬を引いて迎えに来てくれ、帰る時間となった。
「まぁ、もうそんな時間。でも、仕方ありませんね」
御母上様は御名残惜しそうに、長椅子から立ち上がった。
「御母上様、お元気で」
「貴方も、元気でねアヤ。そして信長、貴方もお元気で。戦でのご活躍を祈っております」
御母上様はそう言って、信長様に深くお辞儀をした。
「.........アヤに、いずれ子が生まれたときは、見に来られよ。......母上の、孫なのだから.....」
私の手を握ったまま、信長様はポツリと言った。
「のぶ、.........今、母と.......っ、.......あり、がとう......」
大粒の涙が御母上様の目から零れ落ち、二人の長きにわたる確執が溶けたように思えた。
「ふっ、すぐに孫の顔を見て頂けるように頑張らねば、なぁ、アヤ」
イタズラに笑いながら私を覗き込む信長様の顔はすっきりと晴れやかで綺麗で.....
「うぅっ、そうですね。頑張ります。っうう」
揶揄われてるのに、その問いかけにまともに返答し、嬉しくて泣いてしまった。
そんな私に信長様は呆れ、御母上様と信包さんは笑い、次回会う時までお元気でとお互いに挨拶を交わし、お二人は伊勢国へと戻っていかれた。