第60章 花屋夫人
「御母上様」
「アヤ、ありがとう。貴方のおかげで、心おきなく伊勢国へと戻れます」
「ごめんなさい....私、何も出来なくて.......」
「いいえ、あの子に会えて、伝えたい気持ちも伝える事が出来ました。ありがとう。あの子の事、宜しくお願いします」
御母上様は、私の手を握り、何度もお礼を言ってくれた。
「........所でアヤ、昨日からずっと気になっていたのですが、この頬の噛み跡はどうしたのです?」
御母上様が、痛々しい顔をしながら、私の頬の歯形にそっと手を置いた。
そうだ、すっかり忘れていたけど、信長様に二日前に付けられた噛み跡はまだ薄っすらと残っている。
「........これは............噛まれました」
チラッと噛んだ本人の顔を見ると、案の定、本人はしれっと知らんふり。
その様子を見ていた御母上様は、ぷっと笑い出した。
「まぁ、あなたは乳飲み子の時から噛み癖がありましたが、それはまだ治っていないのですね」
「......................はっ?」
これには流石の信長様も反応した。
「歯の生え始めた貴方はよく、乳を飲みながら私の乳を噛んで、私が痛いっと叫ぶと御館様が飛んで来ては、『吉法師、貴様俺の女に何をする』と言って、おでこを軽く小突かれていました」
やだ、信長様可愛い。
「..................っ、そんな筈はない、俺は乳母に育てられた。そなたではない」
居心地悪そうに信長様は反論したが、御母上様は首を左右に振りながら、優しく微笑った。
「貴方が産まれた日、貴方をこの腕に抱き、初めて私の乳を飲む貴方を見て、心の底から湧き上がる喜びと愛おしさで一杯になり、自分の乳で育てたいと、御館様にお願いをし、そうさせてもらいました。ただ、貴方があまりにも私の乳を噛む為、見かねた御館様が乳母を用意しようと仰って、連れてきてもらったのですが、貴方は私以外の乳を咥えようとはしなかった為、彼女には、乳母以外の世話役をお願いしたのです」
.................ほら、愛は確かに存在した。