第60章 花屋夫人
アヤが店の中へと入って行き、シンと外で待つ。
アヤへの思いに気付き、アヤを喜ばせようと視察先で見つけ持ち帰ったこの犬。仔犬であった面影は全くなくなり、立派な成犬になった。
「俺が留守の間、貴様がアヤを守れ」
「ウォン!」
たくましく成長したシンを撫でてやる。
「.........のぶ.........なが?」
茶屋から出てきた女が、突然声をかけてきた。
聞き覚えのある声に振り返ると、
「..................っ、そなた...は....」
かつて、母上と呼んだ女が目の前に立っていた。
まだ、安土にいたのか、伊勢国に帰ったのではなかったのか?
なぜ、アヤではなくこの女が茶屋から出てくる........
「シン、アヤを呼んで行くぞ」
俺はこの場を去ろうと早々に立ち上がった。
「待って........少しだけで良いのです。話を....」
「話す事などない。今すぐ伊勢国に帰られよ」
「.....待って信長様、お願いです。御母上様の話を少しだけ聞いて下さい」
叫びながら、アヤが慌てて茶屋から出てきた。
「アヤ貴様、俺を騙したのか?」
いつの間に連絡を取った?
昨夜は上手くはぐらかしたはずなのに。
「ち、違います。..........いえ、騙したと思われるなら、そうなのかもしれません。後で、どんな罰でも受けます。ですからお願いです。御母上様のお話を聞いて下さい」
針子部屋へ行った時か、その時に、秀吉にでも伝えたか。
「貴様は少し、黙っておれ」
「っ、.........」
俺が睨むと言葉を詰まらせるアヤ、責めたい訳ではないが、少々貴様を見縊っていた。
いや、貴様が簡単に引き下がる訳がなかった。
「相変わらず、人を巻き込むのが上手い。自分の息子の次は、俺の妻ですか?そうまでして、俺を殺したいと....」
「いいえ、いいえ、それは違います。貴方を殺したいなど、その様に思った事はありません」
「戯言はいらん!即刻伊勢国へ帰られよ。アヤ、行くぞ」
「待って、信長様っ、御母上様にそんな言い方....っん」
苛立ちをぶつける様に、アヤの頭を引き寄せ口を塞いでやった。