第60章 花屋夫人
「.........そして、そう思ったのは私だけではありませんでした。信長の兄弟が同じくそんな信長に不安を覚え、信長を亡き者にしようと、謀反を企てたのです」
湯呑みを握る御母上の手に、力がこもった。
「結果は、信長の勝利でした。
謀反を企てた罪で息子が処罰されるかもしれないと思った私は、急いで信長に会いに行き、命乞いをしました。
..........これが、私の最初の過ちでした。
信長を亡き者にしようと謀反を企てた兄弟たちを止めもしなかったのに、その者たちが敗れれば、命乞いに行く。あの時の、信長の裏切られたような顔を、私は一生忘れる事ができません。
それでも、その時の私は、織田家の為にはこれが正しい行いだと思っておりました」
御母上様の手が、震えてる。
早くにご主人様を亡くされ、年若い信長様やその他の子供達、そして織田家の事を考えなければいけなかった御母上様の重圧もかなりのものだったに違いない。
「信長の残忍なやり方について行けなかった兄弟は、愚かにも信長を暗殺しようと謀反を再び企だて、そして失敗に終わりました。しかも、信長に殺される形で........
冷たくなった我が子を見て、私は信長を罵りました。
鬼だと、悪魔だと、お前が死ねば良かったんだと...
これが私の最大の過ちでした。
そんな私に、もう信長の表情が変わる事はありませんでした。
母に見捨てられた子供は、どんな気持ちなんでしょうね。
元々、何を考えているか分からない子でしたが、あの頃を境に、あの子は人である事を辞めてしまった」
出会った頃の信長様を思い出す。
冷たい無機質な目にぞくりとした事を覚えてる。
「やがて、魔王と呼ばれるまでの悪鬼にしてしまったのは私自身なんだと.....我が行いの愚かさを呪いました。同じ城に住み出してからも、ただただ、残虐な手口で領土を広げていくあの子を黙って見ることしかできませんでした。それが、私に与えられた罰で、償いだと思っていたからです。それは、伊勢国に移ってからも変わりませんでした。娘の市から、ある文を受け取るまでは.........」
「文ですか?」
「ええ、市の文には、昔の兄上様以上にお優しくなられた兄上様にお会いしたと。そう書いてありました。信長は、市にはずっと優しく接しておりましたから」