第60章 花屋夫人
ほんの数分前までは、あんなに穏やかな時間が流れていたのに、今は凍り付いたように信長様は冷めた目で一点を見つめている。
「.........信長様?」
そっと腕に触れて名前を呼んだ。
「............っ、アヤ」
「あっ、..........」
ぎゅっとそのままきつく抱きしめられたから、何も言わず、信長様の背中に手を回した。
どうしたんだろう?
信包って聞こえた。
確か、信長様の弟だよね?
今は伊勢国の御城主だって聞いたけど、一人じゃなく誰かと来た事で、信長様が怒った?
「どうか、しましたか?」
答えてくれないと分かっていても、聞かずにはいられない。
「大した事ではない、行くぞ」
思った通り、信長様は答えてはくれない。
私を抱きしめる腕を解き、そのまま優しく微笑んで、手を繋いでくれたけど、その顔にいつもより少し余裕が無いように見えた。
ぎゅっと、繋いだ手を握り返す。
(私はいつも、あなたのそばにいます)
伝わらなくも、何度も心の中で呟いた。
・・・・・・・・・
それでも、朝餉の時にはいつもの信長様に戻っており、余りその後は気にせずに朝食を食べて、それぞれの仕事へと向かった。
もちろん、頬の噛み跡については皆んなから思いっ切りからかわれた。
針子部屋で作業をしていると、秀吉さんに呼び出された。
廊下で立ち話も何だからと、客間に入った。