第60章 花屋夫人
「なっ、なっ、なっ、な、.........何を朝から...........」
顔が赤くなるのが分かる。
もう、何も言い返せず、口だけがパクパクと金魚のように動いた。
結局私が信長様に敵うわけないんだ。
「...........もう、次からはこんな風に噛まないで下さいね。次は私も噛みますよ」
朝から濃厚な話題をされ、完全に怒る気が失せた。
「ふっ、貴様に噛まれるなら本望だ、いつでも良いぞ」
信長様は楽しそうに笑って私を抱きしめ、歯型のついた頬に優しくキスをした。
信長様が戦に立たれるまで一月を切り、予定していた祝言は延期となった。
お城に残ると決めた私は、みんなに心配をかけない程度に、応急処置や護身術、乗馬は続けている。
ただ、夜はなるべく一緒に過ごせるように、二人で時間を作って愛を育んだ。
だから、こんな風に笑い合って過ごせる日々を大切にしたい。
そして、戦から戻った時はまた思いっきり愛してもらえるように、愛し返せるように、自分を成長させていきたい。
「そろそろ支度をするか」
愛おしい時間はあっという間で、後ろ髪を引かれながらも、支度を始めた。
頬の歯型は完全には隠しきれなかったけど(この時代にコンシーラーさえあれば)何とか誤魔化し準備を整えて、朝餉に行こうとした時、廊下からバタバタと私たちの部屋に向かって来る足音が聞こえてきた。
足音は襖の前で止まり、信長様の名前を呼んだ。
「信長様、秀吉です。急ぎお知らせしたい儀がございまして」
声の様子からして、急いでいるのが分かった。
「入れ」
信長様が声をかけると、秀吉さんは急ぎ足で中に入り、信長様にこそっと何かを耳打ちした。
「................何!?」
信長様の顔が急に険しくなる。
どうやらよくない知らせらしい。
「すぐに引き返すよう使いの者を出せ」
「ですが..........」
「信包(のぶかね)に伝えよ。来るなら貴様一人で来いと。この件はこれで終わりだ。二度と俺にその話を持ち出すな」
「っ.................失礼しました」
秀吉さんはまだ何かを言いたそうだったけど、言葉を飲み込むように信長様に頭を下げて、部屋を出て行った。