第44章 自分の未来へ
私は一年半前、突然行方不明になった。
大阪にあるアパレルメーカーにデザイナーとして就職が内定していた私は、専門学校を卒業した後、横浜の実家を出て一人暮らしを始めていた。
もうすぐ入社式と迫ってきた時、ふと思い立ってひとり旅に京都へと行き、たまたま立ち寄った本能寺跡地で消息を絶った。
当然いなくなった私を両親は必死で探してくれたが、手がかりは何一つなく、不思議なことに、本能寺跡地に設置された防犯カメラにも、突然雨が降り出し、落雷が起きた後、既に私の姿が消えており、その周辺のカメラを確認するも、私の姿は見つける事ができなかったと言う。
何の手がかりもなく、途方に暮れていた半年後、私は本能寺跡地から遠く離れた福井県の海岸で見つかった。
11月の日本海の水温は低く、しかも左の肩から血を流し倒れていた私は意識不明の状態となり生死をさまよったが、何とか一命をとりとめた。
怪我が回復して起き上がれるようになると、警察の事情聴取が始まった。
私の左肩の傷は銃で撃たれたものであったため、警察は当初殺人未遂事件として捜査を始めていた。
ただ、私は行方不明になっていた半年間の記憶が全て抜け落ちていて、思い出そうとするとそれを阻むかのように頭が痛くなった。
医者からは、それは精神的なもので、相当なショックを受けたのだろうとの診断が下され、時が解決するのを待つしかなかった。
そして、警察の捜査はすぐに行き詰まった。
私の傷口から推察できる銃の種類がまずは特定できなかった事。
見つかった際に身につけていた着物が、現代では流通していない珍しい生地であった事。
私が発見された周辺の防犯カメラ全てには、犯人はおろか、私すらも映っているものが発見できなかった事。
そして私の記憶障害。
当時、マスコミは、神隠しにあった元専門学校生とか、過去から戻って来た元女子学生など、この事を面白おかしく書き立てた。
オカルト雑誌から、インタビューの依頼を受けたこともあった。
当然、内定が決まっていた企業からもやんわりと内定を断られ、私は実家の横浜へと戻った。
そんなこんなで、ふた月もする頃には、世間の関心も薄まり、平穏な日々が戻っていった。