第2章 燃えたおつきさま
「詳しい話は後で聞く。とりあえず、先に風呂入ってこい」
「制服どうしたらいいかな?」
「それは手洗いでも無理だ。大人しく買い換えろ」
「はーい」
いまだに頭を抱えたまま深いため息を吐く松田さんに返事をして、とたとたとお風呂場へと向かう。
高木刑事に送ってもらった後、ずっと震えていた指先がいつの間にかぴたりと止まっていて。やっぱり松田さんは凄いな、なんて。静かな廊下で独りごちた。
「だからさ、多分あのモヤは害のある幽霊じゃないと思うんだ」
そうしてお風呂から上がってさっぱりした後、乾いて黒くなった血のついた制服をビニール袋に入れながら、松田さんにさっきあったことを話す。
彼は終始険しい表情のまま無言で聞いていたが、途中の私が飲まれかけたという話あたりでぱきりと近くにあったコップにヒビが入った。ちょっとこれお気に入りのやつだったんですけど。
「……ちょろすぎんだよ」
「うわ、やっぱ言われた」
まあ松田さんならそう言うと思ったよ、と笑ってからかってやれば、松田さんは本日何度目かも分からないため息を吐く。
幸せ逃げるぞワカメちゃん! なんて言えば、今度こそまた広辞苑が飛んできそうだ。
「たとえ桃を助けたのがその幽霊だったとして、だからって全く害のない奴だとは限らねぇだろうが」
「広辞苑ぶつけてくるどっかの幽霊よりは無害だと思うけど」
「次は『オバマと多元主義』ぶつけてやろうか?」
「なにそれ」
「世界で一番分厚い本。34センチあるぜ」
「馬鹿なの?」
それもはや本の域超えてるし。鈍器だろ。
そんなものをぶつけられた日には広辞苑の比じゃないくらいのコブが出来そうだと、想像しただけで真っ青になる私を鼻で笑った松田さんはそっと目を伏せると、「とにかく」と床に落ちていた広辞苑をポルターガイストで持ち上げた。
「まだ相手がどんな奴か分からないうちに警戒を解くなって言ってんだよ」
「別に警戒解いてないですう」
「害のある幽霊じゃないとかほざいてただろうが」
「広辞苑のせいで記憶なくなったから忘れた」
「そうか、もう一回ぶつけたら思い出すか?」
「あー! じわじわ思い出してきたあー!」
ふわふわと浮いていた広辞苑の角がぎらりとこちらを向いたのを見て、すぐさま首を振って叫ぶ。角は洒落にならない。