第29章 カモミールの庭で
完全にマヤにメロメロになっているアレキサンドラを抱いて、近くにあったベンチに座る。
レイも隣に腰をかけて、しばらくのあいだアレキサンドラの喉を鳴らす音を聴いていたが。
「なぁ、マヤ」
「はい?」
アレキサンドラを無心で撫でていたマヤはレイの方を見ずに返事をした。
「さっき応接室にいたイルザなんだが…」
「あぁ、ラント前侯爵夫人でしたっけ? ……綺麗な方ですね」
マヤは落ち着いた雰囲気で優しく微笑みを浮かべていたイルザを思い出す。
「リックが惚れた女は彼女だと思う」
「……え?」
マヤはアレキサンドラからレイへ視線を移した。
「リックってカサブランカのリックさん?」
脳裏に浮かぶのは、ヘルネにある紅茶専門店 “カサブランカ” のオーナー、リック・ブレインの真っ白な髪、同じく白いあご鬚、そしてその人柄を表すような思慮深い濃く青い瞳。
「そう。オレはリックの昔話を聞いたときから、もしかしたらイルザのことなんじゃねぇかと思ったんだが、ちょっと色々話が合わねぇところもあって確信がなかった」
「……色々って?」
「リックが貴族の屋敷に出入りするようになって好きな女と出逢ったと言ったときに、オレはすぐにイルザじゃねぇかと思ったんだ。なぜなら当時…、未亡人のイルザの茶会に頻繁にリックが呼ばれていると噂になっていたんだ。でもあるときを境に急にリックはどの貴族のところにも姿を見せなくなって…。気づけば王都にある店舗もオーナーが変わっていた」
レイはそこまで話すと、ふうっと息を吐いた。
「最初はイルザのことだと思ったのに確信を持てなくなった理由はな、リックが言っただろ? その惚れた女に縁談が来て駆け落ちの待ち合わせ場所に現れなかったって」
「はい、そうでしたね」
「だから違うのかと。イルザはずっと未亡人のまま…、ラント前侯爵夫人だからな」
「そうですよね…。リックさんの話だとリックさんが好きだった方は再婚しているんですよね…」
マヤは物憂げな声を出したが、あれ? と首を傾げた。
「ん? じゃあなんでレイさんは、今はイルザさんがリックさんの好きだった方だと思ってるんですか?」