第26章 翡翠の誘惑
マヤはまたアルテミスの体をゆっくりぽんぽんと叩きながら、優しく声をかける。
「ごめんね。ほらいい子、ねんね…、ねんね…」
大好きな主の寝かしつける仕草と声に、栗毛の馬は再び目を閉じて、すうすうと穏やかに寝息を立てた。
その様子を馬柵棒の向こうから見ていたモブリットは、愉快そうに笑った。
「ひどいな、アルテミス。マヤと一緒に俺の話を聞いてくれていたんじゃなかったのか」
「ふふ、きっと眠りながら聞いていますよ? アルテミスは」
「あはは、そうだな。じゃあ引きつづき聞いてもらおうか」
モブリットは気持ち良さそうに眠る馬と、大きな琥珀色の瞳で見上げてくるマヤの姿に優しい視線を送ると、また話し始めた。
「……団長の捕獲取り消しの命を無視して捕まえた3m級…、マヤ曰く “静の奇行種” のそいつは、大人しかった。だから荷馬車にも結構簡単に載せられたんだ。そして分隊長はすぐさま注射器を取り出した。俺は時期尚早ではないか、いくら一刻も早く生き血が欲しいにしても、兵舎に無事に帰り着いてからだと考えた。でも分隊長は “いや、今この子が奇跡的に大人しいのは天からのギフトに違いない。殺れるときに殺る、縛れるときに縛る、採血できるときに採る! 戦場における鉄則だよ、モブリット!” と目にも留まらぬ早業で採血したんだ。だけれど案の定ガラスの採血管の中で巨人の血は蒸発を始めた…」
「やはり…、そうですか…」
残念そうに相槌を打つマヤ。
「俺も想像どおりの反応を始めた採血管の中の巨人の血を、虚無の気持ちで眺めていたんだ。今後いくら巨人を捕獲して生き血を採ったところで消失してしまうんだから…。それはまさに虚空をもがいて落ちていく羽根のない鳥のようなものさ」
そうつぶやいたモブリットの声は虚しさを帯びていたが、次の瞬間には希望と輝きを取り戻した。
「俺が虚しさのまま、ため息をついたとき…、分隊長は何やらポケットをさぐるとガラスの小瓶を取り出した。そして得意げに叫んだんだ。“モブリット、私がせっかく捕らえた巨人の生き血が蒸発するのを拱手傍観するとでも思っているのかい!?” とね」