第26章 翡翠の誘惑
ブルブルブル…。
少し眠そうにアルテミスが鼻を鳴らした。もぞもぞと足踏みをしている。
「おなかもいっぱいになったし、おねむなのね」
すぐにマヤは、アルテミスが眠る体勢に入ろうとしていることに気づいた。
寝わらを前足で抱えこんで目を閉じるアルテミスのために、一歩脇に離れる。
するとすぐさまアルテミスは器用に足を折りたたんで座った。
マヤもならんで腰を下ろして、アルテミスの胴体に寄り添った。
そうして栗毛の体をぽんぽんと優しく叩く。
そう、それはまるで赤子を寝かしつける仕草。
「それからね、アルテミス…。王都の舞踏会の前にはね…」
マヤの頬がひとりでに薄桃色に染まる。
「兵長とデー…、出かけたのよ」
デートと言いかけたが、やはり相手が馬だとしてもその単語を口にするのは気恥ずかしかった。
「……楽しかったなぁ…」
リックさんの紅茶のお店、丘から眺めた夕陽の色、兵長の行きつけのお店でもらった誕生日プレゼントの桔梗のティーカップ、一緒に歩いた月夜の道。
ぽんぽんとゆっくりとしたリズムでアルテミスを叩きながら、思い出されるのは夢のようなリヴァイとの時間。
「アルテミス、あのね…、私… 兵長のことが好きなの。その気持ちに気づいたときにはね、想うだけで充分だったのに…。一緒にいる時間が増えていくとね、もっともっと一緒にいたいって…」
ブルブルブル…。
「そんな風に思っちゃうんだ…」
ブルブルブル…。
まるで相槌を打つかのようなタイミングで鼻を鳴らすアルテミス。
「……“好き”って欲張りなんだね…」
リヴァイを想うだけで胸が締めつけられる。
マヤが切ない心のままに、ふうっと吐息をついたとき。
「……おっ、おっほん」
突如わざとらしい咳払いの音がした。
………!
弾かれたようにマヤが振り向けば、馬房の外に立っていたのは。
「モブリットさん!」
「やぁ、マヤ…。驚かせてすまない。その… 立ち聞きするのも悪いと思って…」
「えっ!」
ばつが悪そうな様子のモブリットに、恐る恐る訊く。
「……どこから聞いていたんですか?」
「……兵長が好きってところから… かな?」