第26章 翡翠の誘惑
サムとフィルに言われたとおりに、食後の腹を優しくさすってやる。
「よ~く消化しますように…」
腹の筋肉をリラックスさせて消化をうながすかのように、丁寧にさする。マヤの体温が手のひらを通してアルテミスに伝わり、気持ち良さそうだ。
ブルブルブブブブとつぶやくように声を漏らして目を閉じているアルテミスの長いまつ毛が揺れている。
しばらく “いい子だね” “可愛いね” と声をかけながら腹部のマッサージをつづけていたが、いつまでもそうしてはいられない。
次は、馬にとって “第二の心臓” ともいわれている大事なひづめだ。
顔と首すじから腹部まで、ゆっくりと手入れをしたあとなので、すっかり筋肉の緊張は取り払われている。
そっと前脚を手に取り、ひづめを見ると。
「とても綺麗よ、アルテミス。完璧な裏掘りだわ…」
馬のひづめには藁やおがくず、小さな石ころや泥、そして糞尿など… ありとあらゆる物が詰まってしまう。
それを毎日掻き出して綺麗に取り除いてやらなければならないのだが、それを “裏掘り” というのだ。
裏掘りには、清潔を保つという理由だけではなく他にも重大な意味がある。
ひづめに詰まったものをそのままにしておくと角質が腐ってくる “蹄叉腐乱(ていさふらん)” を引き起こす。重症化すると悪臭を放ちながら腐食が進行していき、筋肉組織まで到達すると正常に歩くことができなくなるのだ。それを予防するためにも裏掘りは大切な日課である。
また裏掘りをするにあたって、ひづめに損傷はないかチェックすることができるし、蹄葉炎(ていようえん)というひづめ部分で発症する病気の早期発見にもつながってくる。
このように単に清潔にするだけではない非常に重要な役割のある “裏掘り” は、毎日の馬房掃除のときにおこなわれる。
そして騎乗後もだ。馬場でおこなう馬術訓練および壁内遠方にある巨大樹の森まで往復する遠征訓練のあとには、兵士それぞれが自分の馬をケアする。そのときにも必ず裏掘りをおこなう。
馬房でおこなわれる裏掘りは、ヘングストとその弟子であるサムとフィルがしてくれている。
「この見事な仕上がりの裏掘りは、きっとヘングストさんね」
マヤはそう確信した。