ヤマネコ-ノ-ツガイ【アッシュ】BANANAFISH
第29章 Perfect Crime
《アッシュside》
それから日が経って、俺は鏡の前にいた。
「……」
髪を整え、眼鏡をかけて自分を見つめる。そしてふうっと長く息を吐き、眉を下げしおらしい表情を浮かべる。
…これだな。
そう心で呟いて、表情を戻す。
ポケットの中に忍ばせた手帳を取り出し、1ページ捲る。そこに現れたページを俺は指でなぞった。
「…クリストファー・ウィンストン」
俺の写真で作られたこの偽の“身分証明書”に記された名は、一生忘れることの出来ないあの男から借りた。あの時のことを思い出すと今だに怒りやら悲しみやら困惑といったよく分からない感情が渦巻いて胸が締め付けられる。結局あの後あいつがどうなったのか、ユウコはなぜあいつを庇ったのか、本当のところあいつのことをどう思っていたのか…何一つとしてわかっていない。今更蒸し返すことでもないし、きっと真実は一生闇の中だろう。
あの頃の俺はあいつの賢さを羨ましく思っていた。
それは所謂勉強の賢さではなく生きていくために必要な賢さのことで、例えば15日の客それぞれに合わせた言動や立ち振る舞いとか、自分の立ち位置を不利にしないために相手を思うようにコントロールしたりとか、そういうこと。
自分の心を偽ってでも別の人格を演じることで乗り切れる場面はたくさんあるのだということを俺はあいつから学んだ。
パタン、と手帳を閉じて再びポケットに仕舞う。
…名前なんて何でも良かった。
それでもお前の名を借りたのは、あの賢さを味方にしたいと思ったからだ。当時苦しめられたあのテクニックですら得たいと、そう思ったから。
そんなことを考える自分を嘲りながら、コートを羽織った。
ガチャ、
『ねえアッ…シュ?……え、どうしたのその格好?』
「んー?…どう、似合う?」
『似合っ…てるけど、イメチェンなの?』
「ハハッ…そんなとこ」
ユウコにこの後の作戦のことは伝えていない。表立って危険な目にこいつを晒したくないからだ。
「じゃあ、俺は出るけど…お前分かってるよな?」
『わかってる。不必要にここから出るな、でしょ?』
「ああ」
『ねえ…アッシュも、1人で危険なことするのはもうやめてね?そういうのは私にも背負わせてほしい』
「………」
わかってる、とユウコの頭にポンと手を乗せて俺は部屋を出た。