第4章 新しい朝、そして懐古の夜更け
体を半分ほど入れた所で、一気に力が抜けていくのを感じてロープの長さを慌てて固定する。誰も助けに来ない状況で全身を浸けるわけにいかないことは理解している。しかし、おっかなびっくりやっていては進歩しない。
(ギリギリのラインを見極めて……)
ズキズキと痛みを訴える心臓のあたりを抑えながら、意識的に規則正しい呼吸を繰り返す。
(修行と一緒、毎日負荷をかけたら少しは慣れるはず……)
精神論に頼るしかない、効果的な方法を考えつかない己の無力さを悔しく思う。しかし、出来ることをするしかない現状を理解できる程にはフレイアも子供ではなかった。
「は、は、は」
僅かに視界がボヤけてきたのを感じて、精一杯の力でボートに下半身を持ち上げる。しばらく心臓を抑えて蹲っていると、だんだん落ち着いていく。
「はぁ……」
時計を見て、昨日より記録が伸びていることを確認すると小さく笑った。
「大丈夫。いつか……完璧じゃなくてもいいから、いつかまた声が聞きたい」
生まれた時から共にあった家族の声が聞きたい。ただそれだけが今の彼女の願いだった。
「……」
「あれ、ファイさん?」
黙って甲板の柵にもたれながら海を眺めているファイに気づいて話しかけたクルーが、静かにしろというジェスチャーに慌てて口を閉じる。
「何でもないから気にするな」
ひらひらと手を振って向こうに行けと言われてしまえば、従う以外はない。立ち去っていくのを見届けてファイは煙草に火をつけた。深く肺まで煙を入れて吐き出すと、白い煙が星空に消えていく。
「……」
人目を気にしながら海に入っている娘の様子をこっそり眺めながら、何も言わずただ煙草を短くする。
(本当なら……止めるべきなんだよなァ)
その瞳に映っているのは娘ではなく、医務室で泣き崩れていた華奢な背中。何も出来なかった、何もしてやれなかった、後悔しか残っていない目に焼き付いたその光景が、彼から娘を諫める言葉を奪っていた。
「……」
火傷しそうなほど短くなった一本目を軽く指ではじいて海に落とすと、流れるように二本目に火をつけて銜える。
視線の先では、フレイアが船内に戻って行くのが見えている。苦しいだろうに、毎日欠かさず行われる自殺紛いの行為。
「……お前までおれを置いていかないでくれよ」
力なく呟かれた願いは誰に届くこともなく夜の海に溶けていく。