第34章 月見酒
「今後も俺のために仕えるがいい」
「御意のままに」
光秀は頭を下げた。ふっと、信長の表情が和らぐ。
「それにしても、俺の左腕は自由気ままに動き回る」
信長が笑いながら左腕をぶんっと振ってみせた。つられて光秀も笑みを浮かべる。
「それはそれは。さぞや扱いづらい事でしょう」
わざとらしくおどけてみせる。天主には男達の笑い声が響いた。
それから暫くは黙って酒を酌み交わす。
「時に光秀。貴様は全てを投げ出してでも夢中になる様な事はないのか。例えば女、とかな」
どういう意味だろうか? 光秀は信長の質問の意図がわからず心のなかで首を傾げた。
「もしその様な事があるならば、私自身が見てみたいものです」
「そうか。いつか貴様が必死になる姿を見てみたいものだな」
腹の探りあいに成るのかと思いきや、只の興味本位だったようだ。それ以上追及される事は無かった。酒が底をつく頃、酒盛はお開きとなり光秀は天主を後にする。
「女、か。どうせ政略結婚だろう」
光秀は呟いた。これから先の未来を思い描いてみるが、全てを投げ出してでも手に入れたい女――そんな者が存在するとは思えない。馬鹿馬鹿しいと一蹴して光秀は御殿へと足を向けた。
この数ヶ月後に、身を焦がすような恋が待ち受けているとは、この時露程も思うことは無かった。