第31章 あなたがこの世に生を受けた日 <前編>
さえりが御殿に帰って来ると、女中達がパタパタと走り回っており、いつもとは少し雰囲気が違っていた。嫌な予感がして、慌てて通りがかった九兵衛を掴まえる。
「九兵衛さん、何かあったんですか?」
「さえり様。実は……」
「なに、少しばかり用事が出来てしまってな。暫く屋敷を空ける事になった」
いつの間にか姿を現した光秀が九兵衛の言葉を引き継ぐ。
「え……っ」
言葉は優しかったが、光秀は読めない笑みを浮かべていた。それは悪巧みを……いや、策略を巡らしている時の武将の顔だった。普通の『用事』ではない事は明らかだ。直ぐに無茶をする光秀がさえりは心配で仕方なかった。
「そんな顔をするな。大丈夫だ、数日で帰ってくる」
光秀がさえりの頭をひと撫でする。安心させるように、ゆっくりと。
「光秀さん、気をつけて」
「ああ、行ってくる」
ちょっとそこまで出掛けるというような軽い返事の後、光秀がさえりの唇を掠め取った。
「なっ……」
「ではな。良い子で待っていろ」
皆がいる前で口づけられた恥ずかしさに頬が熱くなる。光秀はその姿を見て満足したようにふっと笑うと、背を向けた後ヒラヒラと手を振り去って行った。
さえりは光秀の姿が見えなくなった後も、その場でしばらく佇んでいた。
しかしいくら待てども、誕生日当日になっても光秀は帰って来なかった。