第13章 エルヴィン・スミス
マーラーの「交響曲第5番」の第4楽章の “アダージェット”。
陶酔的で どこまでも甘く切ない耽美な旋律は、やわらかな響きを持つ弦楽器と ゆらぎのある癒しのハープのみで演奏される。
それまでの人生で音楽にしか興味がなかったマーラーが、40歳を過ぎて初めて、19歳も年下の女性アルマに恋をした。
彼女への愛をこめた至高の曲。
愛の楽章と呼ばれる この世のものとも思えぬ美しい調べは、ふれるたびにいつも、マヤの精神を高揚させ まだ知らぬ愛の世界への憧憬を深める。
マーラーがアルマに贈った愛の言葉が、マヤの心を揺さぶる。
Wie ich dich liebe,Du meine Sonne,ich kann mit Worten Dir's nicht sagen.Nur meine Sehnsucht kann ich Dir klagen und meine Liebe.
(僕がどれほど君を愛しているか、我が太陽である君を愛しているか、それは言葉では とても表せない。ただ我が願いと、そして愛を告げることができるだけだ)
熱烈な愛の賞賛とともに、魂で創り出した曲を捧ぐ。
マーラーの愛の形に マヤの胸の鼓動は高鳴り、人知れず ふぅっと息を漏らす。
それがアダージェットにふれたときの いつものマヤのケミストリーだ。
しかし、この夜は違った。
……マヤは、涙を流していた。何故だか自分でもわからない。
愛しい男性の面影が全身を駆け巡り、マヤの細胞のひとつひとつを、言葉にはできない切なさできゅっと締めつける。
まだ本当の意味での愛を知らなくても、その世界の入口に片足をかけたからか。
胸の奥に渦巻く切ない感情に翻弄され、あふれ出る涙を止めることができなかった。
浅野先生が仰った「違った景色」を、この夜 マヤは身をもって知った。