第1章 Live and let live
全てを飲み込んでしまいそうな、深さの見えない黒い海。
今夜は満月だったのか。遮るものが何もないそれはそっくりそのまま水面に映し出され、風が吹くたびに脆く揺れ動く。
誰もいない静けさに思わず見入ってしまったが、すぐに事の重大さに気づき、もやのかかったような頭をぶんぶんと横に振った。
ありえない。
絶対に、ありえない。
つい数時間前まで見渡す限りの住宅街だったところが、気づけば一面海になっているなんて。
それに水面は2階にある私の部屋のすぐ下でかなり近く、1階は完全に見えなくなっていた。
まるで私の部屋だけが船のように浮いているみたいに。
腰まで身を乗り出し、首の動く限りで右を見ても左を見ても、そこにお隣さんの家はおろか、建物すらない。
あるのは風に靡く水面のみ。
ありえなかった。
けれど波の音は聞こえていて、水面に反射する月が見えていて、どうしようもなく潮の香りがあたりに漂っていた。
落ち着くための深呼吸がさらに潮の香りを体内に取り込み、一層頭が混乱するだけだ。
うるさい心臓の動きは早まるばかりで、止まりそうにない。
そうなれば残る可能性はただ一つ。
夢。
そう、これは夢だ。
間違いない、間違えようがない。
明晰夢を見たことはないがそうかこんな感じなんだな。
近頃あまりにも寝つきが悪いからいよいよ脳が限界に達したらしい。
それにしても夢は匂いまで感じることができたのか、とひとまず乗り出した身体を引っ込め、窓を静かに閉めた。
これは間違いなく夢で、もう一度ベッドで横にでもなれば次に気付いた時は朝になっているだろう。
月明かりがあってなお暗い部屋を慣れに任せてベッドまで迷わず歩くと、
「ガッ…!?!」
何もないはずの場所に突如現れた角に思いっきり足をぶつけてしまった。
めちゃくちゃに痛い。誰だろうか、夢の中では痛覚はないと言った奴は。
指が折れたんじゃないかとも思えるほどのその痛みは、これが夢ではないことを大声で叫んでいるようだ。
何かがおかしいと薄々気づいていたが、もう何が何だかわからない。
夢というのはこうも鮮烈だったのかと、足に走る痛みが生まれて初めての衝撃だった。