第1章 Live and let live
眠たくもない時に筋肉の力で無理やり瞼を閉じているのも楽ではない。
身体は確かに休みたがっているのだ。だが休むことを知らない私の心はこうしている間ももったいないと言わんばかりに忙しなく動き続ける。
落ち着く場所を探して寝返りを打っては、またすぐに体勢を変え、眉間にしわを寄せる。
何十回とそれを繰り返し、時計の針が3時を回った頃、諦めて目を開けようとした私の頬をさっきまでとは温度の違う風が触れた。
瞬間、目をバッと開き思わず起き上がった。
潮の香り……?
間違いない、一瞬だったがアレは確かに潮の香り、海風そのものだった。
まるで果てしない海を目の前にしているような、懐かしくもあり新しくもある風。
だがここは住宅街のど真ん中、海に行こうと思えば軽く2時間は車を飛ばさなくてはならない完璧な陸の上だ。
私もかれこれ10年近くは海に入っていない。
人間の記憶と嗅覚は密接に結びついているらしく、砂浜の感覚すらも忘れた身体でさえ、ほんの一瞬のあの風で先の見えない地平線が脳裏を駆け巡った。
きっと近くの家が早い海開きにでも行ったのだろう、と起こした身体を再び横にしようとした時。
「!?」
髪がなびいた。
さっきより明らかに強い風、強い潮の匂い。
そして今も耳に入ってくる波の音。
隣の家が海に行ったような記憶の断片ではなく、確かな“海”そのものがそこにはあった。
住宅街の丑三つ時、息が詰まるほどの静寂。
自分の呼吸音とベッドの軋む音だけが響くはずの部屋の中に段々と大きくなる波の音。
気づけば私はベッドから立ち上がり、ふらふらと窓際へと向かっていた。
吸い込まれそうな暗闇をもっとよく見ようと半開きの窓に手をかけ、恐る恐る網戸ごと全て開け放した。
強まる潮の香り。
身を乗り出すと、夢ではないと言わんばかりの大きな波の音が耳に飛び込んだ。
海。
住宅街のど真ん中であるそこは、間違いなく吸い込まれるような暗闇の大海原になっていた。