第9章 恋敵
“許嫁”という言葉が頭から離れない。
この時代では決して珍しいものではないのだろう。家康なら尚の事だ。
けれど自分自身には全く馴染みのないもので、頭の中が真っ白になって、そっとその場を離れて部屋に戻った。
家康の腕に絡む椿をこれ以上見たくなくて、黙って離れたことは失礼だったかもしれないけれど…あの場には居たくなかった。
「…ごめんなさい」
ポツリと呟いた言葉は部屋に響いたが、誰にも聞かれる事なく消えていく。
目を閉じると椿が家康に抱きつく姿が鮮明に蘇る。
自分自身の中にある醜い感情が沸き起こり、顔が歪む。
家康に抱きつくのが私だったら…。家康の恋人は私ですって正々堂々宣戦布告出来たなら、と色々考えてしまう。
今の私にはどちらも出来ないけれど。きっとこの感情が嫉妬なんだろうなと、さくらは切ない笑みを浮かべた。
暫く窓の外を眺めながら考えに耽っていると、襖の向こうから声がかかった。
「さくら?いるんでしょ、入るよ」
スッと襖が開かれ、中に入ってくる。窓からそちらに視線を変えると、家康は無表情で自分を見ていた。
…これから何を言われるのだろうか。
別れ話だったら流石に泣いてしまう。不安そうな表情をしていると、家康はそばに近寄ってきてさくらをギュッと抱きしめた。
「不安にさせてごめん」
抱きしめてくれている腕に力が入る。そして静かに椿のことについて話し始めた。
「彼女は有名な大名の娘で、俺が人質として今川へ行くまで、親同士が決めた許嫁だったんだ」
人質になって許嫁は解消になったけれど、最近その大名から書状がきたのだ。改めて椿と婚姻関係を結んで欲しい、と。
勿論断りの書状を送っている。
それで終わったと思っていたが、椿は淑やかな女性ではない。どちらかと言えばお転婆で、思ったことは直ぐに行動に出るような性格をしている。それが仇となってしまったのだ。
徳川家に取り入りたいという人間は多い。
椿の父親も娘の行動は知っているはずだ。それを黙認していると言うことは、二人の関係が上手くいけばいいとでも思っているのだろう。
「俺が好きなのはさくらだから。さくら以外の女なんていらない」
「………っ」
「不安にさせて本当にごめん。椿がいる間は嫌な思いをするかもしれないけど…必ず守るから」