第8章 縮まる距離
信長の言葉を聞き、この人は一体何を言っているんだ、と思った。
取られるも何も、さくらは真田幸村に好意を持っているではないか。勿論、家康がそう思っているだけで実際は違うのだが。
ふと昼間の光景が頭に浮かび、眉間に皺を寄せ首を振った。思い出しただけで何故こんなにも腹が立つのか。
「家康、冷静さを欠いては何も見えぬぞ」
「俺は至って冷静ですが」
「さくらは、真田幸村のことは“友達”だと言っていたのであろう?ならばその言葉を信じてやるが良い。…家康、後悔だけはするでないぞ」
貴様の捻くれた性格は厄介だな、と不敵な笑みを浮かべ、信長はその場を後にした。
結局あの人は何しに来たんだ。しかも、何故自分が悩んでいることを簡単に見透かすのか。
「訳、分からない」
どうしようもない苛立ちをどこにもぶつけることなどできず、踵を返してそのまま自分の御殿へと帰って行った。
*****
部屋へと戻ったさくらは、どうして家康が冷たい態度をとったのかが分からないでいた。
無理もない。一方的に遠くから幸村とのやり取りを見ていただけの家康を気づくことなど、普通の女性では不可能に近い。
渡すはずだったタオルをギュッと抱きしめて、膝に顔を埋める。
少しずつ芽生えた恋心も呆気なく終わってしまった。
「あっちは苛々で、こっちは辛気臭いな」
「…え?」
顔を上げると、そこには余裕の笑みを浮かべた信長の姿があった。
必死に堪えて溜めた涙が頰を一筋流れる。その涙を、信長は優しい手つきでそっと拭った。
「お主が泣く必要などない。悪いのは勘違いをしている家康だ」
「勘、違い?」
「あれの性格はかなり捻くれているからな。…だが、捻くれた裏に優しさがあるのも事実だ」
信長はじっとさくらを見据える。
その姿に思わずときめいてしまうのは、自分だけでは無いだろう。
家康とはまた違った雰囲気で、威厳もあるが、それと同時に自分を見る目はどこか優しい。
そっと髪を一房すくい上げ、口付けを落とす。
その瞬間、目を見開いたまま固まってしまうさくらを見て、信長はくくっと機嫌よく笑った。
「お主はお主のままでいれば良い、さくら」
そう言い残して信長は部屋を後にした。
…信長様に直接名前を呼ばれたのは初めてかもしれない。