第1章 story Ⅰ
「…もう帰るか。」
小説を鞄の中に入れ、隣の椅子に掛けていた上着を取ろうと手をかけた時、背後に人の気配がした。振り向くと、素人の目から見ても高級そうなスーツに身を包んだ男が立っていた。
「お久しぶり。」
その男は声をかけてくるものの、瑞希には見覚えがない。身内にも友達にもこの様な男は居ないし、勿論、職場にだって居なかった。
「…ど、どちら様でしょう?」
瑞希の発言にビックリしたのか、男は驚いた顔をするや否や笑いだした。
「アハハハ!俺の事忘れちゃったの、鷹?」
「鷹」は瑞希が受刑者達から呼ばれているアダナだった。他の刑務官にもアダナは付いているが、知られると罰を与えられる。しかし、瑞希は受刑者にアダナで呼ばれても服役中数少ない娯楽だからと、罰則はしないでいた。