第1章 私の中、私は生きる
「それより、お腹空きませんか?部屋を出て少し歩いた所に、私お薦めのお店があるんです。付いて来て下さいっ」
女性の顔には、既に先程の感情の欠片が無くなっており、澄み切った表情で立ち上がって私に手を差し伸べる。きっと、あのような事が日常化してしまっている為、女性の神経は麻痺してしまっているのだろう。
「ふふっ、どうしたんですか?...はいっ、掴まって下さい」
少し一人で考え事をしすぎていたか、女性の顔が何故か私の前に見えた。女性の差し出す手に
しっかりと掴まり、ゆっくりと立ち上がる。でも、私もかなり疲れが溜まっていたらしく、足元がふらついて視界が揺れる。
「おっと、大丈夫ですか?」
女性は、前方に倒れる私の身体に手を伸ばして、しっかりと支えてくれた。
「...ん、はい」
私は、女性の肩に手を置いて、力を借りて何とか体勢を立て直す。
「すみません、迷惑ばかり...」
女性は私を見て淡く微笑み、頭を下げる。女性は扉に手を掛け開き、部屋の奥の霞んだ硝子の窓の付いた扉の前で立ち止まる。私は恐る恐る化粧室を出ると、目の前の床には子犬の縫い包みが無残に引き裂かれて、血のように綿が地面を這うように広がっている。確か、化粧室に入る時にはそんなものは無かった筈だが。
「貴女にも、素敵なお名前があると思います。でも、これからは違うお名前を使う事をお勧めします。残念ながら、ここはそういう場所なのです」
その声に、はっとして顔を上げると、手を掛けたまま身体を捻り見守る姿が確認出来た。でも、違う名前を使うとはどういう事なのだろう。そういえば、まだ女性の名前も教えて貰っていない...。
「私は、この場所について詳しく知れている訳ではありませんが、一つだけ分かる事があります。それは、貴女に何か呼び名が無いと寂しいという事です」
女性は扉から手を離して、口を覆って笑う。
「優しいお方なのですね。お好きに呼んで頂いて構いませんよ」
そう嬉しそうに微笑んで、気持ちを弾ませて話す。
「それでしたら、私の名前は貴女に決めて頂きたいです」
私がそう言うと、女性は考える為に腕を組んで足をぶらぶらと振る。