第1章 私の中、私は生きる
私が先程までいた廊下から、”なにか”が走って向かって来る音が聞こえる。その音は足音みたいだが、人間のような二足歩行の生物より複雑な音。それは勢い良く部屋の扉を一撃で破壊し、金具の軽い音が地面で数回鳴った。私は唾を飲み込み、『なにか』が来るのを顔を俯かせて覚悟した。『それ』は、私たちの場所を既に知っていたかのように、化粧室の扉に大きな力が加わり、鈍く重い音が幾度に亘り響く。
「ひっ...!」
女性は、必死に声を押し殺し、扉を押さえる事にだけ集中しようと首を振った。その得体の知らない力は、信じられない程に重く、私たち二人では到底長く抑えきれないもの。でも、本能的に開けてはならない事くらい、誰にでも分かる。だから、私たちは必死に押さえ続けた。扉が、外れて取れそうなくらいに、ぐらぐらと軋み揺れる。扉を手で押さえるだけでは耐えきれないと感じた私は、後ろのタイルの剥がれた壁に足を掛ける。こうすれば、もう暫くは耐えていられる。直接伝わる強い力は、抑える手に痛みとなって伝わる。限界が訪れるのも、時間の問題になる。それは、女性も同じである。
――――その力は、私たちに関心が無くなったのか、糸が切れたように扉に力が加わる事は無くなった。しかし、頭の中にはまだあの扉を叩く音が、耳にへばり付いて聞こえる。女性に眼を向けると、極度の緊張から解き放たれて、力が抜けたように地面に座り込んだ。私はそれを見て、気が抜けたように笑みが零れた。
「もう...大丈夫です。先程の部屋に入る時にでも、気付かれたんですかね」
女性は、崩れた天井を見上げて微笑む。酷く疲弊した様子で、全身の力を抜いていた。
「さっきのは、一体何なんですか...? とても人間のような力で...出せるようなものでは無かったですよ」
女性は、見上げる顔を落として頭を振る。何度も体験してきた女性でも、あの存在については詳しく知らない...か。そういえば私、ずっと立っている気がする。私も座る事にしよう。
「私も分かり兼ねますね。何より見ていたとしたら、今貴女二人で、こうは話せていなかったでしょうね。あれは、そういったモノと考えるべきでしょうね」
私は、女性の隣に腰を下ろす。女性は冗談めいた事を言って、くすっと笑った。