第10章 花脣なぞる指先に、彼の人の玉脣を想う
その後も男は翔の暮らし振りや仕事振りを話して聞かせた。
智は男の話しに、目を爛々と輝かせ、時には声を上げて笑ったりと、それはそれは熱心に耳を傾けた。
そうするうち、すっかり外は夕焼け色に染まり…
「これはこれは、随分と長居をしてしまって…何分、私は一度話し出すと、中々止まらん性分で…」
男は気恥ずかしそうに笑うと、智に向かって軽く頭を下げた。
「いえ、私の方こそ、お引き止めしてしまって…。長旅のお疲れもありましょうに…」
「いやいや、とんでもない。私も其方と話しが出来て良かった」
「私と…でございますか?」
小首を傾げる智に、男はうんうんと頷くと、さてと…とばかりに、すっかり床板に貼り付いてしまった腰を上げた。
それを見て智は楚々とした仕草で土間へと先回りし、男の草履の向きを揃え直した。
「私にも其方のように気の利く嫁子でもいたらな…」
内心、翔を羨みながら草履を履いた男は、無用の長物となった傘を片手に、すっかり皺の入った袴の裾を一叩きし、智に向き直った。
「何はともあれ、あと数日もすれば櫻井殿もお役御免となるであろうから、それまでは少々寂しかろうが、暫し待たれるが良い」
「ええ…」
にこやかに手を振り門を潜る男の背中を、智は深々と頭を下げ見送った。
翔からの文を胸に…