第7章 猜疑と当惑に揺れる心
「ただいま戻った」
翔は至って平然と木戸を開け、土間の上がり端に腰を下ろした。
すると奥の方からぱたぱたと足音がして…
「随分と遅かったのですね?」
湯浴みをしたばかりなのだろうか、長い髪を結うこともせず、毛先からぽたぽたと雫を垂らす智が顔を出した。
「ああ、つい顔料のことで店の主人と話し込んでしまってな…」
翔は智を抱き寄せ、ありもしなかったことを口にした。
そして濡れた髪をそっと撫でると、智の手から手拭いを取り上げた。
「このままでは風邪をひく。私が拭いてやろう」
「ふふ、嬉しい…」
翔は智の細い腰を抱いたまま板間に上がると、智を鏡の前に座らせ、手拭いで髪の水気を丁寧に拭き取った。
「ねぇ、お師匠さん?」
「なんだ?」
「お師匠さんは、誰かを心からお慕いしたことがありますか?」
鏡越しに訊ねられ、翔はどう返して良いものかと考えてしまい…
「そうだな…」と言ったきり、続く言葉を見つけられずにいた。
それなりに歳を重ねていれば、当然色恋沙汰の経験は何度かあるが、それが果たして智の言う〝心から〟のものなのかは、実際のところ翔自身分からない。
智のことにしたってそうだ。
愛してはいるが、それはまた〝慕う〟とは別の感情なのだから、智の問に答えられる筈もない。