第5章 実弟の追憶
「私の言ったことも忘れた?邪魔するなって」
忘れるわけがない、俺はあの時初めて絶望を味わった。
『おやすみ、エース。大好きだよ』そう言って笑った姉は、朝起きると、人が変わったように見たことのないほど冷たい表情で俺を見下ろしていた。いつもはしゃがんで俺に合わせる目線も、この日から見下ろされるようになった。いつもは俺の体力に合わせて行われる鍛錬もあり得ないほど厳しくなった。泣いてもう無理だ、と訴えても「泣き虫は嫌い」と言って続く鍛錬。眼が覚めると丁寧に巻かれた包帯とガーゼが、当時現実を受け止められない俺の、唯一の救いだった。
そして姉との別れの日。海兵になると言ってじじいとともにダダンの家から出て行く日。女は言った『私海兵になるの、わかる?…あんたの行動一つで私の足枷になる。私の邪魔するなよ』
当時は何のことかわからなかった。だが捨てられたのだと思った。そして今になって意味がわかる。俺と兄弟だとわかると海軍として、女に不具合が起こるのだ。
そんなに自分が可愛いのかよ、そう言ってやろうと顔を上げた。しかし、言葉にしようとした嫌味は、無意識に飲み込んでしまった。
「…どうしてっ、」
俯いていた顔を俺に向け、悲痛そんな面持ちで呟いた。小さな声だったが俺には届いた。どうしてって、何がだよ。どうして、なんて俺のセリフだ。どうしてあんたがそんな苦しそうで辛そうで、痛そうな顔するんだよ。
「どうしてじいちゃんと私の言うことが聞けないの、」
咄嗟に何も言えなかった俺は女の表情と言葉に息を飲んだ。ジジイからの「海兵になれ」、この女からの「邪魔するなよ」、忘れられない言葉が脳に反響する。どうすればよかったんだよ俺は、わからない、この女がずっとわからない。
何か言おうにも何も言葉が出ない。数秒だったか、数十秒だったかの沈黙の後、女は足を下ろした。
「……処刑まで自生の句でも考えれば?」
もう女の顔は見えなかった。俺が見なかったのではない、女が見せなかったのだ。足を下ろすとすぐに俺に背を向けた女は、最後に俺を皮肉ると冷たい海底から去っていった。