第2章 桃色ドロップ
「す、すみません!余所見をしていてぶつかってしまいました!」
慌てて距離をとった後、90度綺麗に腰を曲げて謝罪の言葉と共に頭を下げた。ぶつかったのは、きっと男の人だ、と名前は確信していた。
ぶつかった際に感じたかたさは、きっと胸板だと思う。女性にはない感触だ。
そよぐ春風により制服を靡かせながら、頭を下げたまま無心で相手の言葉を待っていると、頭上からクスクスという笑い声が降ってきた。
楽しげなその笑い声は、とても耳触りがよく心地の良いものだった。体制をそのままにゆっくりと顔だけ上げれば、口元に手を当て優しげに微笑む男が名前を見下ろしていた。
すらりとした体躯、見惚れてしまうほど整っている顔、耳触りがよくずっと聞いていたいと思ってしまう声。本当男性なのだろうか?と名前は皿のように目を丸くさせた。
「あぁ俺の方こそ悪かったよ。花を見ていてね、前を見ていなかったんだ」
そう言って眉を八の字にし、すまない、と謝る男にーー名前はゆっくりと瞬きをしたあと我に返り姿勢を正した。
まだ着慣れぬ制服は少しだけ動きづらかったが、それでも無理矢理姿勢を正し男へと視線をやる。
肌は白く、キメが細かい。花に水をやるためのジョウロをもつ右手はゴツゴツと骨ばっており男らしい。その先の腕は血管が綺麗に流れ、筋肉がうっすらとついているのが見てとれた。
綺麗な顔をしているが、男だということがそれらを見てよく分かった。
名前の口から、また感嘆の声が漏れそうになったが緩く頭を左右に振り、咳払いをひとつ落とした。
「お互い花に見惚れてたんですね…。しかし、ぶつかってしまって本当にすみません。以後!このような事が起こらぬよう最善を尽くしますので」
そう言って深々と頭を下げたのち、名前はくるりと踵を返した。
10数年という短い時間しか生きていない彼女だが、男の人を綺麗だと思ったことは初めてだった。
ーー神様とは不公平なお方だな…私は曲がりなりにも女だと言うのに、綺麗の"き"の字の欠片もくれなかったなんて。
澄み渡る海のような綺麗な春空をちらりと睨みつけながら名前は内心で毒づきつつ歩を進めようと足を一歩前へと踏み出した。