第9章 山の国 I
「ゼロ……っ」
脳裏によぎる、かつての主の名前。
もう少しで、名前が思い出せるのに。
だがそれは、ゼロの唇が離れると共に再び薄れていった。
「どうだ歌仙、治ったか?」
歌仙は斬られた脇腹に手を触れる。
そこにはもう、何もなかった。
少し触れ合っただけで、ここまで回復するのか。
歌仙はゼロの手入れの速さに驚いた。
「あぁ、すっかり良くなったよ。ありがとう」
「有難うございます、だろ?」
歌仙は顔をしかめる。
一瞬でも、ゼロを見直したことが悔やまれた。
だが、ここで礼を言わないのは雅じゃない。
「……有難うございます」
「よく出来ました!あぁ、愉快だな」
歌仙が渋々礼を言うと、ゼロはにやりと笑った。
「さて……と、ん?」
ゼロはくるりと踵を返して再び目的地へと進もうとするが、近くにいた山姥切の様子がおかしいことに気付く。
呆然とした表情で、黙ってゼロ達を見ていた。
「おい、どうした?」
声を掛けるが、返事はない。
「野良猫?」
ゼロが山姥切の顔を覗き込むと、山姥切はハッとした表情をする。
ゼロが歌仙に口付けた瞬間、山姥切は動揺した。
ゼロはただ、歌仙の手入れをしただけ。
だが、二人が口付けている間、山姥切は何かよくわからない感情が湧き上がっていた。
それが一体何なのか、山姥切にはわからない。
「お前も、手入れしてもらいたいのか?」
ゼロが山姥切の肩に触ると、山姥切の頰が赤らむ。
「……ち、違う。そんなこと、あるわけないだろうっ」
顔を見られたくなくて、山姥切は口調を荒げてゼロの手を振り払う。
しまったと、思った時にはもう遅く、山姥切は自分の態度の悪さに、違う意味で顔が熱くなった。
「そうか、すまなかったな。まぁ、負傷したなら遠慮無く言え……手を繋ぐくらいなら、覚悟ってやつはいらないだろう」
ゼロは山姥切の態度を気に留める様子もなく、再び山道を歩き出す。
そんな彼らのやり取りを、歌仙は不思議そうな目で見ていた。