第3章 ラブリーディストーションII(徳川家康)
「ちょっと、いるなら声ぐらいかけなよ」
そう言いながら、家康は隣の椅子を引いてくれる。
夜景を見下ろす窓に向かって配置されたカウンター。
既に透き通った金色のお酒が注がれた、グラスが置かれている。
「暑かったから、先に貰った」
「…うん。待たせちゃったからね、気にしないで」
「千花は何にするの」
そう言いながら、家康はボーイさんを呼び止めようと辺りを見回している。
私はといえば、ドリンクの事ではなくて…初めて二人で此処に来た、夜の事を考えていた。
初めて、の時は。
私が緊張をどうにか紛らわしたくて、このバーに誘った。
以前父に紹介された男性と訪れたその場所は、吸い込まれそうな夜景が見事で。
いつかきっと好きな人と来たいものだ、とその男性との会話もおざなりに、妄想したものだった…
エレベーターの扉が開いた瞬間、無愛想な彼の目にほんの少し、戸惑いの色が浮かんだのを思い出す。
「…あんた、こんな店…よく来るの」
「えぇ、まぁ…家康は?」
「来る訳ないだろ、そんな相手がいたらこうしてない」
「ふふ、そっか。そうだよね」
ぶっきらぼうなその返事すら、嬉しかった――
「ちょっと、どうしたの」
不意にかけられた声に、意識がふっとこちら側に戻ってくる。
怪訝な顔をして、家康は私の顔を見上げている。
カバンも置かずに立ち尽くしていた事に漸く気付いたけれど、一歩でも動けば、張り詰めた糸が千切れそうだ。
「…千花」
何も言えずにいる私の手を、家康が柔らかく引く。
その優しさが余計に痛くて、私は、やわやわと震える口に力を込める…