第8章 名もなき人々の肖像
尾崎翠という名を黒蜥蜴から聞いて、其処で初めて、彼女の名前すら知らなかったことに気付く。名も知らぬ女に踏みつけられ、蹴り飛ばされても、尚、心奪われたままであるなど、美しさとは罪なものだ。
彼女の目に映ることのないまま時は過ぎ、一方で彼女は見る度に華やかな宝飾品を身に付けるようになっていた。思いを寄せた女性が他の男の色に染められて行くのを、指を咥えて見ている以外に何もできなかった。
高価な装飾を次々と買い与える財力と、幹部としての人望、さらに圧倒的な暴力を見せつけられ、最早優っている部分は身長くらいしかないと項垂れながら、業務を終え帰途に着く。
午前で終わるはずの仕事が伸びて昼下がりになっていた。トボトボと裏口から建物を出ると、黒塗りの高級車と其の持ち主が視界に飛び込む。運転席の扉に寄りかかる其の男と目が合った時の、飢えた獣が獲物を見つけたような表情は、恐怖を植え付けるには十分なものだった。
其の視線から逃げ出すように、建物の中に走り戻る。中也には、此の淡い憧憬など既に露見しているのだ。狼狽しながら勘定方の扉を開く。
「中也さんが、下に…」
彼の名前を出すと、事務員たちはバタバタと翠から書類を受け取った。上質な羽織を持った彼女は、ひとつ会釈をして、部屋を出る。業務中だと云うのに、部署内は快く彼女を見送った。