第8章 名もなき人々の肖像
中原幹部の翠を配下に置こうとする動きが見えた時、やはりと納得し、此れで肩の荷が降りると安心した。勘定方の資金部の一角では彼女を持て余していたし、幹部の直轄であれば取引先に顔も立つ。
何より、翠の表情が変わったのだ。総ての人間に一線を引いた、何にも興味などないと云わんばかりの目が、身を潜めた。幹部命令に振り回される姿が、いっそ楽しそうに見えるのは、気のせいではなかろう。娘を嫁に出す気持ちとは、此のような心情を述べたものだと思うのだ。何処か寂しくて切なくもあり、同時に開放感と期待感が湧き出でる。
「一寸、痛いです。無理矢理入れたら駄目ですよ」
業務中に突如、扇子片手に襲来した中原幹部は、翠の帯に其の扇子を差し込んでいた。最近彼女の持ち物の中に、法外な程高価な物が紛れていたが、現場捉えたりと云ったところか。
「姐さんが懇意にしてる老舗の品だから、善い物だとは思うがな」
振り返りもせずにヒラヒラと手を振って出て行く幹部の背中に、翠は台風一過と嘆息していた。その割に、彼が居なくなってから扇子を広げて嬉しそうに眺める姿に、部署内の者たちと目を見合わせて笑った。