第5章 偽りの目
其れから間もなく、翠の立場は森の管下へと移された。その際に賜った首領の小言が、耳から離れない。
「中也くん。彼女は取引先からお預かりした大切なお嬢さんだよ。君の小間使いにするのは、止しなさい」
首領は、彼女を「預かった」と称した。つまりは孰れ尾崎に帰すということか。彼女の意思に反してか、それとも自身の足で戻るのか、何方にせよ、首領がそう言うのだから、そう成るのだ。
持ち主が不在の部屋の執務机に腰かけたまま、中也は目を伏せ嘆息する。何時迄も此の馬鹿馬鹿しい時間を過ごしては居られないと、その天板から飛び降りた時、未施錠の扉が控えめに開いた。戸の向こうから顔を出した樋口は、先客に驚き上ずった声を上げる。
「ち…中也さん、此方にいらしたんですか!」
悪戯が発覚した幼児のように、樋口はそわそわと両手を組み直した。その些末を一切合切無視して、中也は如何したと問いかける。部屋主不在の闖入者としては、中也も大差ない。
「芥川先輩の症状に合う香草茶があるみたいで…翠さんが部屋から持ってって良いと仰ったので…」
口を開けば芥川だなと、中也は笑った。顔を赤らめて取り繕う樋口に茶葉をあてがって、部屋を出る。
「俺にはそういうの、よく分からねェな」
すれ違い様、中也から零れ落ちた言葉に、樋口は振り返る。そんな筈は…と樋口の心根から溢れた思いは、彼の背中には届かなかった。