第10章 嵐の前の喧嘩日和
葉琉は事務所を出て直ぐの廊下で、壁に背中を付けて立っていた。確かに、最初に太宰の地雷を踏んだのは葉琉だ。太宰の中也への気持ちを知っていて名前を出してしまったのだ。それについては葉琉も反省をしていた。しかし、その後の太宰の言葉は頂けなかった。それと、先刻の発言。
葉琉ははぁあと深い溜息を吐きながらその場に座り込んだ。不意に目の前に影が落ちた。顔を上げると目の前には鏡花が立っていた。
「あ…鏡花ちゃん。ごめんね、事務所変な空気になっちゃったよね」
鏡花は首を横に振って「大丈夫」と答えた。そして其の儘言葉を続けた。
「葉月さんは貴女の事をずっと心配している様だった。私にも、妹みたいと言って良くしてくれた」
鏡花は首から下げていた携帯の兎と猫の二つのストラップのうち、猫のストラップを外した。
「此れは葉月さんがくれた物。貴女が持つべきだと思う」
鏡花は猫のストラップを差し出した。それを受け取ろうとした時だった。「必要ないよ」という声が聞こえた。二人はその声の主を見た。
「葉琉はマフィアに戻るかもしれないからね。厭という程これから葉月ちゃんと一緒に居られる筈さ」
葉琉は立ち上がり乍「治ちゃん、何言ってるの?」と呟いた。
「私が戻る訳…」
「戻りたいのだろ?中也の処に」
「だからそれは…!」
葉琉は黙った。太宰の氷の様に冷たい視線に言葉が出なくなったのだ。言葉の代わりに溢れて来たのは涙だった。ぽろぽろと頰を伝う。何も言い返せないのが悔しかった。
「治ちゃんは…私がどんな気持ちで治ちゃんと一緒にいたか判ってると思ってた。治ちゃんも同じ気持ちだと思ってた。でも、違うんだね」