第1章 初恋は金木犀
「…ちょっと、近づいてみようかな」
ほんの出来心で、背の低い金木犀の木に触れてみようと思った。一歩進む度にその匂いが濃くなる。それはまるで甘い香りに誘われる蝶のような気分だった。
の手がその花に触れた瞬間、めまいを起こしそうなほどのときめきが体を巡った。初めての感覚だった。小さく胸が高鳴ったのがはっきり分かった。金木犀の向こうの景色が、現実とは違って見えた。
涼やかな横顔
すっとした鼻筋
西日に当たる色素の薄い髪の毛
時おり眼鏡を戻す細くて長い指
真剣な目でペンを走らせる
金木犀の木の向こうには図書室の窓があった。
「…白石くん?」
誰もいない図書室の隅で、静かに勉強をしている彼を見つけた。別に初めて見た人ではないはずなのに、まるで初めて出会ったかのような衝撃だった。
別のクラスとはいえ、同級生の彼。普段から真面目で、頭がよくて、皆の頼りになる存在。誰とでも分け隔てなく付き合えるような、そんな人。
そんな彼のひとりの時間を覗き見たような気がして、思わず、釘付けになってしまった。
(……きれい。)
どれくらい見ていただろうか。
金木犀の香りに惑わされたのか、彼に吸い寄せられたのか、西日に溶けそうな彼の姿から目が離せずにいた。映画のワンシーンのような、運命的な出会いを感じていた。
ふいに完全下校のチャイムが鳴り響いた。一気に現実に引き戻される。この時間の終わりを告げる鐘の音。その音にどきりとして、心臓がどくどくと動き始める。ふと彼を見るとそのチャイムで帰り支度を始めていた。
(…あ!見つかったらどうしようっ!)
見つかったら気不味いという変な焦りで、普通に帰ることさえ思い浮かばず、はどうすればいいか分からなくなってしまった。
(えーと、隠れるべき?いや、帰らなきゃだよね?)
「さん、なにやってんの?」
帰るべきか隠れるべきか。でも、まだもう少しだけという葛藤のなか、どうしようか迷っていると頭の上から声が降ってきた。いつも穏やかな彼とは思えない、ちょっと不機嫌な怒ったような声だった。
「あ、あの、白石くんっ。これは、ちょっと」
その声にどきりとして、恐る恐る見上げる。帰り支度を終えた彼が、窓からこちらを訝しげに見ていた。