第8章 夜桜に出会う

柔らかい春風に誘われてフワフワとした足取りで帰路に付く


今夜は随分と飲み過ぎてしまった


スーツのジャケットから嫌に香る居酒屋の臭いに溜息を吐き出しながらもその実、内心穏やかな気分なのは見上げた先に美しく咲き誇る桜を見付けたからだった



一定の区間を開けて並ぶ桜並木は街灯に照らされて夜空に浮かび、閑静ながら華やかな光景に爪先は自然とその方向を辿る


つい先日迄は寂しく凍えていた木々の桃色にいつの間にか自宅を目指すには随分と遠回りをしてしまっていたけれど、そんな事は至極どうでも良いと思う程に私は何かに誘われていた



途中自販機で缶コーヒーを買って何が目的とも無く桜並木の終わり迄歩いてみよう、だなんて

普段は決してしない事だが……その道の先で出会ったのはこの世に存在しているのか、はたまた幻なのか

視線だけで全てを奪ってしまう様な瞳の持ち主だった



痺れる様な鼓動から立ち尽くした私にチラリと視線を寄越した後、気に留める素振りも見せずに夜桜を見上げたその人は、長く肩に流れる艶やかな黒髪を風に靡かせる



随分と長身である事やシンプルながら指を飾るアクセサリーから恐らく男性なのだろうと思ってみても
スラリと高い鼻筋、長い睫毛に漆黒の双眼、薄い唇はまるで作られた人形の様に整い、中性的な顔立ちから男女の判断は付かなかった



そんな人物を何に例えるのが正解なのか私にはわからないが透明とも黒とも取れる不思議な雰囲気を放つその人に見惚れるままどれだけの時間が経ったのか




「ねぇ、さっきから何？」




静まり返った道に響いたのは凛と無感動なその表情に似付かない気だるげな声だった