第1章 たとえば、君に名を呼ばれる倖せ【名探偵コナン/安室 透】
「良かったら、今度聴かせてもらえませんか?」
「え……?」
自然とそんな言葉が出ていて。
すると、彼女は微かに頬を染めた。
「……は、恥ずかしいです……」
さっきは、あんなにも堂々と歌っていたのに。
まぁ、恥ずかしいという理由から、詞織は周囲に『趣味』を公言していないわけだが。
公園で歌ったのは、不良たちの気を引くため。
引いては、赤ん坊を連れた母親を助けるためだったのだ。
――可愛い。
安室は詞織のことを、素直にそう思った。
「今日は、ここで夕食を済ませて行かれませんか?」
琥珀の瞳を丸くする彼女に、安室は微笑む。
「帰りは、自宅まで送りますので」
守りたい、彼女のことを。
この、美しい歌声を。
再び頬を染めた詞織は、コクンと小さく頷いた。
* * *
店仕舞いを終え、二人で駐車場まで歩く。
肌寒い風の中で無言が続くが、不思議と居心地の悪さを感じることはなかった。
心地良い沈黙の中で、安室が自動車の鍵を開けると、詞織は「お邪魔します」と遠慮がちに助手席へ乗る。
そんな彼女の仕草の一つ一つが可愛くて、安室はこっそり笑った。
エンジンを掛けて、彼は自動車を走らせる。
ただ、一つだけ疑問があった。
偽名を使っていること。
もちろん、本名を明かすつもりは毛頭ないが。
彼女は自分のことを、どう思っているのだろうか。
膨らんだ疑問は、黒い滴を落とし、心に波紋を呼び起こす。
「あ、の……」
「はい」
赤信号で自動車を止めれば、詞織は安室を見て、にっこりと笑った。
それだけで、黒く濁り始めていた心が澄み渡っていく。
信号が替わり、再びタイヤを走らせる。
「僕のことが、怖くはないんですか?」
「……? どうしてですか?」
「どうして、ですか……」
その疑問がすでに「どうして」なのだが。
安室は、それ以上は聞かないことにして、「いえ」と話を切り上げることにする。
そのことに、彼女も何も言わなかった。