第1章 たとえば、君に名を呼ばれる倖せ【名探偵コナン/安室 透】
ベンチに飲みかけのコーヒーを置いて立ち上がろうとしたときだった。
カチャンッと、何かが開く音が耳に届く。
何だ、と疑問が浮上するより早く、ヴァイオリンのケースが開けられたのだと分かった。
ヴァイオリンを手にした詞織が立ち上がったのを見て、安室も腰を上げる。
「詞織さん、何を……?」
その問いは聞こえなかったのか。
彼女は答えることなく、騒ぐ彼らの方へと足を数歩進め、立ち止まった。
昼の柔らかな陽射しが降り注ぎ、優しく吹きつけた風が、詞織の黒く長い髪を靡かせる。
ゆっくりとヴァイオリンを構えた彼女に、ようやく彼らは気がついたようだ。
赤ん坊の母親と三人の不良の視線を浴びながら、詞織は弓を引いた。
赤ん坊の甲高い泣き声を包み込むように、ヴァイオリンの美しい音色が響き渡る。
ほんの十数秒のわずかな前奏。
まだ泣き止まぬ赤ん坊に焦れた様子もなく、ヴァイオリンを下ろした彼女は、桃色の小さな唇を開く。
繊細な、硝子細工のような透き通ったソプラノの歌声に、赤ん坊の泣き声が止んだ。
まだ知能を持たない赤ん坊すらも魅了した歌声が、幻想的で儚い歌詞を紡いでいく。
まるで、どこか不思議な森に迷いこんだような錯覚。
どこまでも美しい旋律に、今度こそ、安室の心は感動に震えた。
何もかもを赦し、全てを包み込み、疲弊した心を癒す旋律と歌声。
生で聴く彼女の歌は、機械を通して聴くよりも、何倍もの破壊力を持っていた。
気を抜けば涙すら流れそうなほどに、圧倒的で暴力的な、至極の旋律。
彼女の歌が終わった頃には、赤ん坊は母親の腕の中で、安らかな寝息を立てていた。
* * *