第1章 たとえば、君に名を呼ばれる倖せ【名探偵コナン/安室 透】
「そうでしたか」
ありがとうございます、とコーヒーを受け取ると、彼女は「では」とすぐに立ち去ろうとする。
その細い手首を反射的に掴み、安室は詞織を引き止めた。
「……え?」
振り返った彼女は、琥珀色の瞳を瞬かせて彼を見つめる。
自分でも、なぜこんな行動に出たのか分からなかった。
けれど。
――もう少し、彼女の声を聴いていたい。
どうやら、自分は思った以上に疲れているらしい。
そんなことを言い訳にして。
「……何か、急ぎの用事でも?」
平然を装って尋ねれば、詞織は黙って首を振る。
「もうすぐ、ポアロに行きます。バイトで。それまで、少しつき合ってもらえませんか?」
唐突にこんなことを言われて、戸惑うのも無理はない。
断られれば、次は引き止めないつもりだった。
沈黙が痛いと感じ、ようやく、自分の言ったことを後悔する。
十歳も年下の少女に、自分は何を言っているんだ。
すると、ふわりと柔らかな空気が舞い降りる。
隣に詞織が腰を下ろしたのだ。
「……嫌われていると、思っていました」
顔を上げれば、彼女は困ったような顔をして笑っていた。
「どう、して……?」
口にした声は思ったよりもずっと固く、どこか震えている。
「だって、私は安室さんにとって、不都合なことを知ってしまったのでしょう? だから、お店にも行かないようにしていたんです」
それで来なかったのか、と心のどこかで納得した。
人通りのまばらな公園に、冷たい風が吹く。
「確かに、あなたに指摘されたことは、本来なら誰にも知られてはいけないことです。でも、だからと言って、嫌っているわけではありません。警戒はしていますが」
けれど、詞織が不用意に吹聴しないことは分かっている。
彼女への警戒レベルも、ほとんど下がっているのが現状だ。
そう言うと、詞織は驚いたように瞳を丸くして安室を見た。