第1章 たとえば、君に名を呼ばれる倖せ【名探偵コナン/安室 透】
さらに一週間が過ぎた頃には、神結 詞織への警戒を緩め、護衛に留めた。
本人が気づいていないとはいえ、組織の一員であるベルモットの『お気に入り』である以上、何かあってからでは遅い。
「はぁ……」
朝一番で『降谷 零』として本庁へ赴き、書類仕事を終えた彼は、午後にはそれを全て片づけた。
現在は正午過ぎ。
一度帰宅してからスーツを着替え、安室は近所の公園のベンチに座り、大きなため息を吐く。
トリプルフェイスを使い分けるこの仕事は、傍目から見るよりもずっとハードだった。
ときどき、何もかもを放り捨てて、逃げ出したいと思ったことも、一度や二度ではない。
それでもそうしないのは、この国を守るという使命感と責任感、正義感や誇りといった感情からである。
さて、コーヒーでも買ってくるか。
ひと息入れたら、また仕事だ。
午後からはポアロでのバイトが入っている。
「お疲れさまです」
不意に、微糖入りのコーヒーが視界に現れる。
澄んだソプラノの声で、それが誰なのかが分かった。
同時に、身体の力がわずかに抜け、蓄積された疲労が幾分か抜ける。
「詞織さん……どうしたんですか? こんなところで」
さりげなく周囲を窺えば、物陰に潜む部下が、軽く会釈した。
「調律に出していたヴァイオリンを、受け取りに行っていたんです」
「調律に?」
嘘を聞き分けるだけの耳があるのなら、調律くらい自分でできそうだが。
それが顔に出ていたのだろうか。
彼女は眉を下げて笑う。
「知識としては一応。でも、独学で学んだ知識で調律するよりは、プロの方に任せた方が安心ですから」
そう言って、詞織は自分のヴァイオリンをケース越しに撫でた。