第4章 たとえば、君を知る倖せ【黒子のバスケ/黄瀬涼太】②
「ごめんなさい、黄瀬さん。大丈夫ですか?」
「平気っスよ、これくらい」
それより、と続けた。
「敬語。さっきからところどころ抜けてるっスよ」
「え? あ、申し訳……」
「いいじゃないっスか。オレ、そっちのが嬉しい」
「……っ」
恥ずかしそうに詞織が俯く。
それが可愛くて、再び彼女を抱きしめたくなったが、それは寸前で思いとどまった。
代わりに、その長い黒髪に触れることにする。
滑らかな絹のような指通りを味わいながら、黄瀬はそれを一房すくった。
「せっかくだから、『黄瀬さん』も、もう止めるっス」
「それは……」
「ほら、オレの名前、忘れたんスか?」
どうやら囁かれると弱いらしいことを思い出して、彼は詞織の耳元で低く囁いてみる。
「そういうわけじゃ……」
案の定、顔を真っ赤にする彼女を堪能していると、冷たい声音がオレたちの空気をぶち壊した。
「詞織、早くしろ」
「あ、うん。ごめんなさい。すぐ行く」
するりと、手の中から詞織の髪が逃げる。
その胸の切なさを持て余し、黄瀬は机に寄りかかってため息を吐いた。
兄の横に並ぶ詞織を見送っていると、不意に彼女がこちらへ戻って来る。
「忘れ物っスか?」
「えぇ、あ、はい」
低い位置にある詞織の顔を覗き込むと、少しだけ頬を赤らめながら、照れたように微笑んだ。
「今日はありがとう、『黄瀬くん』」
それでは、と丁寧に一礼して、詞織は兄の許へ戻っていく。
やがて二人の姿は見えなくなり、ガタンッとドアの閉まる音が響いた。
耳の奥では、さっきの彼女の言葉がリピートされている。
ただ、『さん』が『くん』に変わっただけ。
たったそれだけのことが、嬉しくて仕方がない。
「あぁ――もう!」
……どれだけ夢中にさせたら気が済むのか。
そんなことを考えながら、黄瀬は広い旧図書館で一人悶えていた。
【たとえば、君を知る倖せ③へ続く】