第1章 駆ける兎の話
雷脚師はやんわりと手を振って、抱え込んだ書物を持ち直した。
「あなたは良い徒弟です。賢しく覚えも早い。そして何より疑問を持って物事を探究しようとする姿勢がある。これは学問する者にとって非常に大切なものです。疑問を多く抱くのは知識に頼って独断や偏見に落ち込みがちな我の大きな助けになります」
師は沈梅と物の言い方が似ている。けれど何が起ころうと万事他人事で人と関わりたがらない沈梅に較べて、雷脚師の仰る事はストンと胸に落ちる。これは人柄だろう。諸国を経巡って様々な経験を重ねて来られたから、言葉に重みもある。
「先生が土の国に一緒に来てくれたらいいのに」
思わずポロリと心が溢れた。
びっくりして口を押さえたら、雷脚師は優しく頭を撫でて頷いてくれた。
「私もそう出来たらと思いますよ。あなたが土をどのように良くして行くか、是非にも見届けたいものです」
晴れた日にはいつもそうして来たように、今日も学びの場は園庭の四阿。
茉莉花や薫衣草、葵が咲き乱れる中を蜜蜂が飛び交い、鯉魚の遊ぶ小池を白桃色の蓮が彩り、濃い草花の薫りを纏った夏の蒸気が気怠く心地好い上午。
ひんやり冷たい大理石の卓と汗をかいたお茶の杯、遠くから聴こえてくる歌謡の国の弟の歌声や狼娘の裂帛、時々泡のようにさんざめく姉妹の誰かの笑い声、女官の密やかな足音、侍従長の、ヒソヒソ周りを気遣いながら、でも響きのいい小言。
それに、先生の穏やかな顔。
失くしてしまうものの大きさに息苦しくなった。
私は香国が好きだ。凄く好き。
ここが終の棲家ではなくて、間もなく去らなければいけない処だとわかっているからこんなに好きなのかも知れないけれど、でも大好き。
「会いに行きますよ。何時かきっと」
雷脚師が優しく言って目を細めた。
「土の兎速が如何な誉れになっているか、その日を楽しみにしています」
何時かじゃない。七日の後、隣に居てほしいのに。
次の教え子の元へ向かう師の後ろ姿を見送っていたら、視界がぼやけた。
…私の隣に立つのはどんな男だろう…。
初めてそこに思い至った。
先生のような人ならばいいのに…。
無理だ。土のようなむくつけな国に雷脚師のような男が居る筈もない。
気が一層沈み込んだ。