第1章 駆ける兎の話
泥炭のような思いを呑み込んで我に返ると、師が呆れ顔で私を見ていた。
「心ここにあらずですね。魂抜けたようになっていますよ」
糸のように細い目をした農学の師は、物腰が穏やかでおっとりと優しい。物流を引き受ける南北二国集散と通用のうち南の通用の出で、諸国を歩き回る博学の人だ。沈梅に古語を説き、商人の国の母を持つ涼快という三番目の姉に算術を教えている。
「縁定したとあっては諸事手に付かないのも無理はありませんが、課された事はこなさねば示しがつきませんよ」
こんなに優しげな師なのに、雷脚(レイジャオ)なんて名前なのがちょっと面白い。面白くて、好きだ。
私は名前通り凄く足が速いから、師の名前が何となくしっくり来る。稲妻程も足が速ければさぞ清々するだろう。どんなに煩わしい事も追いつかないくらいに駆けて行けたら…
「兎速!」
パンと目の前で手を打たれてハッとした。
「今日はもうここ迄としましょう」
広げた書物を片付けながら、雷脚師が苦笑いする。
「あなたと学べるのは後一度、次が最後です。その時にはあなたの迷いが覚めていてくれる事を願いますよ。国に戻られても学ぶ事は多い筈。ぼんやりしている暇はないでしょう」
「…はい」
言い訳が口をついて出そうになったけれど、ぐっと堪える。師の言う通りだ。私には学ばねばならない事が多い。謝ろうかとも思ったが、それも違う気がして口を噤んだ。
「ではまた」
立ち上がった雷脚師が、ふと猫背気味の背を屈めて私の顔を覗き込んだ。
「わかっているとは思いますが、学んだ事を実践するのは国にお戻りになられてからですよ?ここにいるうちに土に触れてはなりません」
師の顔が近付いて我にもなく高鳴った胸の熱が、すっと引いた。
「…そんなにも土は穢れたものですか?」
低く尋ねたらば、師は微かに笑って首を振った。
「ここ香国で土が忌まれるのにも訳がある。その問いは一概にお答え出来るものではありません」
着込まれて柔らかくしんなりと体に添った袍の袖を捌いて、雷脚師は身を起こした。
「もっと早くにお尋ね下されば良かった。とても良い問いです。是非時間をかけて、他でもないあなたにお教えしたかった事」
苦笑いが再び師の口元に上る。
「そう言っても、今更詮無い」
「私は良い教え子ではなかった?」
「まさか」