第1章 駆ける兎の話
事は三日後に起きた。
狼娘にまたも国元から求婚者が訪れ、何と四度目の正直とばかりに、とうとう狼娘を叩き伏したのだ。
男は月狼(ユエラン)と名乗った。
がっしりしてはいるが狼娘より背が低く、鼻も低い。正直あまり風采の良い男ではない。真面目で寡黙そうな様子は悪くないが、狼娘の婿がねに相応しいようには見えなかった。
何より、狼娘を娶ろうと言うならその名の通り狼のような狼娘を負かさねばならないのに、どう見ても月狼にそれが出来ようとは思えない。同じ狼を名に戴いているのに、狼娘とは雲泥の差があるように見える。
その月狼が、手合わせが始まって四半刻も経たぬうちに、肝の臓を突かれ顔を打たれ、鼻血を流して喘ぐ狼娘に向かって、顔色一つ変えず息一つ乱さずこう言い放った。
「諦めろ。狼は狼と番うものだ。俺と国に帰れ」
皆開いた口が塞がらず、固唾を呑んで事を見守った。
手負いの獣みたいに歯を剥いてる狼娘が、この見た目と裏腹に馬鹿げて強い男に何と応えるのか。
「自惚れるな。私は狼と番わずとも狼だ。誰と番おうと狼の子を産み、狼の母になる」
唸るように言った狼娘に、月狼がああと頷いた。
「成る程、お前さんはそういう名だからな。頼もしい事だ」
真顔で狼娘を見下ろし、やおらその体を肩に担ぎ上げる。
「あ、あ、何を…」
驚いて月狼の袖に手を掛けた知香を止めたのは、他でもない狼娘だった。
「安心しろ」
月狼も目顔で頷く。
「私たちの国じゃ怪我の手当ての出来ない者は他人を傷付ける事が許されない。私が加療を学んでいるのは知っているだろう?こいつは私の手当てをするんだ」
狼娘が優しく宥めるような声音で言った。
血だらけでも狼娘はやっぱり綺麗だ。特に優しい顔をした時は、濃い紺碧色の目が明るく澄んで見惚れてしまう。
「平気な顔をしているが、肩の骨も抜けている。痛いだろう」
月狼に言われて狼娘の顔が悔しそうに歪む。月狼は素知らぬ顔で女官に案内を頼んで宮内に入って行った。その肩に身を任せて大人しくユラユラしている狼娘が、ひどく印象的だった。
「びっくりしたわねえ」
珍しい相手に話し掛けられた。
樹花の国の遊華。