第2章 番う狼の話
遠く茫洋とした綺麗な蜃気楼の様なもの。それが私の記憶の中の香国だ。
今現在捉えている香国の印象はまたまるで違ったものになっているが、それも仕方ないだろう。何しろ私の立場が変わってしまったのだから。
まあ、いささか含むところのある生国ではあるが、あそこには私の愛する姉がいる。
彼女は、十四人の姉妹と八人の兄弟、並み居る兄弟姉妹の中でもいずれ香国を統べる立場にある真正の皇女である。
名を知香という。
嫋やかで人好し、気弱に見えて克己心があり、いっそ私が男ならと思いながら密かに惚れ込んでいた知香だが、噂によると先頃前例のない破天荒な縁定を願い出て、宮中に随分な騒ぎを引き起こしているらしい。
大人しく遠慮がちな筈の知香は、驚く事に兄弟の暮らす前宮に使える年若い官史と情を通じ、今身籠っているのだ。
面白い。
東の学者の国を統べる長姉、変わり者の沈梅からの便りでそれを知ったとき、私は私の馬鹿げた赤毛が逆立って、パチパチ弾けたような心地になった。
いや、誤解しないでくれ。正直私は自分の馬鹿みたいな髪色が大好きだ。あまり好き過ぎてつい腐さずにいられない。
この好きで好き過ぎて苛めたい心持ちは何と言ったものかな。程良く言い表せる言葉があれば、私の天の邪鬼な好意も他に伝わり易くなるだろうに。
沈梅からの便りには国勢の不穏急を匂わす下りもあったが、今更驚くものではない。大陸と広大な土の国を挟んで独立する豊かな半島が香国だ。何れ外つ国の脅威を免れまい。今まで他国の干渉なく在ったのがむしろおかしいくらいだ。土の防波と海辺の属国の守りに感謝すべきだろう。
その中にあっての知香の下り、これは実に面白い。
国が乱れるときというのはこんなものなのだろう。香国は今岐路にある。
「早く子供が欲しいな」
フと口をついて出た。私の内心を知らない月狼が変な顔をした。
「いきなり何だ」
「いきなりでも何でもないだろう。夫婦になって夜を営めば何時あってもおかしくない事だ」
「そういう意味じゃない。話の脈絡がわからないと言っている」
「夫婦とは言え私の心の内までは読めまいからな」
「お前の中では先の話と繋がっている訳か」
「その通り」
「では独り言と捉えていいのだな」
「独り言?何故独り言だ。お前と話しているのに?」