第2章 番う狼の話
剣戟の春は埃っぽい。荒れて硬い土の上を春の大風が吹き渡るせいだ。
生まれ育った香国の春は穏やかで寛やかなものだった。新芽が健やかに首をもたげ、若葉が柔らかく裸木を彩る。だから微細な埃から鼻や口を守らなければならない剣戟の国の春は物珍しく、またいささか煩わしい。
香国に戻りたいとは思わないが、春という時節はもう少し趣深く嫋やかであってもいいように思う。
とは言え、口や鼻を更紗の頭巾で覆うのは嫌いじゃない。こうすると私の青い瞳が更に引き立って困ると月狼が言ったから、月狼を困らせるのが楽しい私はこの春、好んで顔を覆って歩いている。
月狼は私の連れ合いだ。
私より背が低く、風采はあまり良くないらしいが私にはよくわからない。元から人の美醜の別がつかないのだ。美しい者とそうでない者があるらしいが、全く興味がないしそれで困った事もない。
「それは随分自由な事だな」
生真面目で賢い我が伴侶は、話す事がなかなか穿っていてそこが面白い。
「お前さんは少なくとも皮革で人に惑わされない訳だ。それだけ人の中身に近いところへ他より早く触れられる」
「それが自由なのか?」
「縛りは少ない方が自由ではないか」
「皮革は枷か」
「囚われてしまえば枷だろう」
「お前は私の皮革に囚われたのか?」
薄く笑って尋ねたらば、太く器用な指で鼻を抓まれた。
「美しい皮革に惹かれるのもまた多くの者にすれば誤魔化しようのない正直な気持ちだ。しかし年経れば自然皮革の中身は目に見える部分にも現れ出す。味が出る。これで俺は見かけだけのものに囚われる程浅はかではないつもりでいるが自惚れかね」
「その通りと言えば私は我の価を腐す事になるな。この策士め」
お返しに低い鼻を抓んでやると、月狼は真顔で私の手を掴んだ。
「うっかり鼻が高くなったらどうする。俺は低い鼻を気に入ってるんだ」
「そりゃ悪かった。気を付けるよ。私もお前の低い鼻が好きだからなぁ。うっかり高くなられちゃ困る」
「そうだろうとも。気を付けてくれ」
月狼のこんなところが好きだ。真顔で冗談を言う。
国に戻ってもう八つ月を数えた。日にして二百と半程、剣戟の暮らしにも随分慣れた。質素で剛健、背筋の伸びた北の民に囲まれて過ごす毎日はしっくりと私の肌に馴染む。豊かで麗しい香国の奥宮での日々がまるで他人事のようだ。