第1章 駆ける兎の話
私は蓮の束を大事に腰帯に挟んで、お母様に頂いた沓に手をかけた。
外履きに向かない柔らかな手触り。お母様からの餞。
だけどこれは脱いでしまおう。だって多分お母様は、小さなうちにもう裸足で土を踏まれているだろうから、私も同じようにしたらきっと喜んで下さる。
裸足で、慣れ親しんだ園庭を踏む。夏の陽射しに照らされた下生えが、チクチク温かくて不思議な感じがする。不思議な感じがするけど気持ちいい。
屈んで大地に手を着いた。色んな匂い。土の熱、植生の感触。
何て近しい。
園庭を渡る風が項の後れ毛をふうっと撫でて、遠くへ吹き去る。
花が、草が、樹が色濃く、皆夏の熱に汗をかいているように見えた。暑さを喜んでいる。秋に備えて。そう思うんじゃなく、そうなんだとわかる。足の裏から、掌から。
暑さに喘ぎながら土に根を下ろし、健やかに夏を楽しみながら実りの秋を待っている。
「…私、これ好きみたい。裸足が、好きみたい」
大好きな園庭が初めて秘密を打ち明けてくれたような不思議な気持ち。ますます園庭が好きになった。もっと早くこうしていたら、もっと色んな園庭を知る事が出来たのかな。だったら勿体なかったな。
「良かった。私も好きだよ」
蜂恵が満足そうに頷いた。蜂を育てて土を耕す硬い手が、まだ柔かい私の手をとる。
私はその手をぎゅっと握って笑った。
「蜂恵。私は足が速いのが自慢なの」
気が付くとついさっきまで皆と並んで座りたいと思っていた広間の楽しげな声が遠くなっていた。遠くて小さい。もう私を引っ張らない。
「でも裸足で走るのは初めて。一緒に走ってくれる?」
蜂恵が榛色の目を陽射しに煌めかせた。
「私も足に自信がある。そうでなければ兎を娶ろうなんて思いつかないだろ。土の兎速?」
土の兎速。
私は蜂恵と目を見合わせて笑った。蜂恵も笑う。握りあった手に力がこもって、私たちは同時に駆け出した。
爪先が柔い土を草ごと蹴る。土踏まずの靭やかな筋が心地よく伸び縮みする。踵が大地を捉える。
大きく差し伸ばされ、返って曲がる膝。内と外、踏み込み飛び出す度筋を使い分ける腿の動き。