第1章 駆ける兎の話
「…蜂蜜…?」
「うん?ああ、私の蜂蜜はどうだった?蜜蝋ごと食べられる蜂蜜なんて、なかなか手に入るもんじゃないからね。土に帰ったらたんと食べて、もっと太ってくれよ、痩せっぽちの兎速。こうも軽くちゃ抱いた気がしないぞ」
私を軽々と抱き上げて、蜂恵が眩しそうな顔をする。私は照れくさくなって眉根を寄せた。
「痩せっぽちは余計よ。でもありがとう。あなたの蜂が集めたご馳走だったのね、あの美味しい蜂蜜は」
「私は養蜂家なんだ」
「怖くないの?蜂は刺すじゃない」
「怖くない。蜂は絶対私を刺さないのをわかってるから。君にもそのうちコツを教えるよ」
「そしたら私も蜂蜜が採れる?」
「勿論」
「やってみたい。絶対やりたい。本当に教えてくれる?」
「本当に教えるとも。帰ったら早速君に蜂をあげよう。君も蜂を好きになってくれると嬉しいな。私の姉妹は蜂蜜は好む癖に蜂は嫌いと来てるから」
嬉しそうな蜂恵。
私も嬉しかった。自分で蜂を育てて蜜を採るなんて、何て素敵なんだろう。上手く出来たら姉妹に私の内緒のご馳走を贈ってあげよう。皆きっと、凄く喜ぶ。もしかしたら奥宮に蜜蝋ごと蜂蜜を食べるのが流行っちゃうかも知れない。皆があの楽しさや美味しさを私の蜂の作るご馳走から知ってくれたらどんなに誇らしいだろう。
嬉しさに胸が膨らんで、溜め息が出た。こういう溜め息もあるんだ。物知りの沈梅は、こんな溜め息を知っているかな。もし知らないなら教えてあげたい。
蜂恵の腕から下りて、ふと蜂恵の腰帯の後ろに挿し込まれた二輪の蓮花に気が付いた。
「…それ、どうしたの?」
「ん?ああ、ごめん。忘れるところだった」
白い絹で結われた二輪の蓮は、白と白桃色。
「君のご両親に挨拶したとき、お姉さんからって渡されたんだ。どのお姉さんかわかる?」
蜂恵から蓮を受け取って、私は頷いた。
「わかる」
知香だ。
顔を寄せると、蓮なのに僅かに百合が匂う。
「そう。なら良かったよ。綺麗な蓮だね、それ。丁度開きかけ、土に着く頃には咲ききるかな」
そうすればもっと綺麗だろうと言って蜂恵は私の顔を覗き込んだ。
「寂しい?」
「…それは寂しいわ。私、ここで生まれてここで育ったんだもん。沢山の姉妹と一緒に」
「泣いてたね?目がまだ赤い」
「何言ってるの。兎の目は赤いものでしょう」