第1章 駆ける兎の話
「誰がひとりで行けなんて言った?私が一緒に行くと言ってるじゃないか」
しゃんと顔を上げた私に蜂恵が意地悪な表情を引っ込めた。
「君が知らなくて私が知っている事は何でも教えるよ。君が知っていて私が知らない事は、君が私に教えてくれるだろう?二人ともわからない事なら皆に助けて貰える。土は一生懸命な者には親切だ。私たちはお互いに頑張れると思うんだけどな。ほら、おいでよ」
窓辺から離れて蜂恵が腕を広げた。
「沓を脱いでお出で。土ではね、子供が自分の足で歩けるようになったら真っ先に表に出して裸足で大地を踏ませるんだ。土を踏んで歩かせる」
ああ。
お母様の言伝てはこういう事だったのか。腑に落ちた。よくわからない事を仰ると寂しくなったけれど、やっぱりちゃんと意味があったんだ。
…でも…。
「何の為にそんな事をするの?」
尋ねたら、蜂恵は凄く真面目な顔をした。
「土の国だからじゃないかなぁ。私も詳しい事はよくわからない。それが当たり前だからね。ふーん。言われてみれば、何の為にそうするのかなんて考えた事なかったな…」
「…変なの」
「変じゃない。私に言わせれば君らの方がよっぽど変だよ。でもまあ面白いね。君は香国で生まれ育ったから、やっぱり私たちとは物の見方が違うんだな。知らないとさえ気付かない当たり前をひっくり返してくれる女の子なんて今まで会った事がない。うん。ますます気に入った」
ひとりで盛んに頷く蜂恵に私はムッとした。
「面白くて結構ね。ひっくり返すんだか裏返すんだか知らないけど、その調子で沢山の女の子と遊んでればその内そういうコにも会えるでしょうよ。私でなくてもね!ひとりで喜んじゃって馬鹿みたい。あなたはそれでいいでしょうけど、私の気持ちはどうなるのよ?」
「あれ、私が気に入らないのかい?どうして?どこが?」
蜂恵は、心から驚いたように目をぱちくりさせた。うっかり笑いそうになったけど、絶対笑ってなんかやらない。自惚れ屋だわ。図々しい。
「私は随分君が気に入ったのに、残念だなあ。兎速」
ツンとすましていたかったのに、名前を呼ばれたら心の臓が跳ねた。また顔に血が上る。
蜂恵は更に大きく手を広げた。
「私は土の長の十番目の子、十四人中唯一人の男子、蜂恵。香国に嫁いだ賢しい朱鷺(チュールー)の娘兎速を迎えに来た」