第1章 駆ける兎の話
難しい顔をして言う私に蜂恵が噴き出す。
「何で笑うのよ!」
カッとしてツカツカと窓辺に詰め寄ると、蜂恵は引くどころか身を乗り出して面白そうに目を光らせた。
「何でって、さっき決まった事だって言ったのは君じゃないか。なら迷う事あるかな?」
「……」
言い返してやろうと開いた口がパチンと閉じる。蜂恵の言う通りだ。迷う事なんかない筈。さっきまですっかりそのつもりで大人しく座って誰とも知れないこの蜂恵を待ってたんだから。
「私は君と一緒に土へ帰るのは厭じゃないみたいだよ」
首を傾げながら私をじろじろと不躾に見回し、蜂恵は大きく頷いた。
「うん。君はちょっと短気で強情そうだけど、頭は悪くないみたいだし、声も可愛い」
あまり褒められたように思えないけど、蜂恵は凄く褒めた気でいるらしい。またひとつ頷いて指をパチンと鳴らした。
「それに私の見立てた衣裳が頭の先から足首まで、ぴったり似合ってるのが気に入った」
変な事を言う。
「足首まで?足先はお気に召さないって訳ね。残念でした」
舌を出してやりたいのを必死で堪える。流石に行儀が悪過ぎるし、蜂恵に笑われそうで厭だ。
蜂恵はムッとして睨み付ける私をのんびり見返した。
「どうして沓を履いてるんだ?私は君に沓は贈らなかったと思ったけどな」
「沓は履くものよ。裸足でどうするの」
私は呆れ返って窓辺から一歩離れた。おかしいんじゃないかしら、この人。
蜂恵は私の様子にはお構いなしだ。
「君は裸足で土を踏んだ事ないんだろうね」
また変な事を言う。
「ある訳ないじゃない。だって土は…」
「穢れたものだから?」
蜂恵の朗らかだった顔が初めてチラッと意地悪な表情を浮かべた。私はまた詰まって黙り込む。違う。土は穢れてなんかない。ないとわかってるのに、何でだろう。まだこんな風になってしまうのは。
「長く身を置いた環境はなかなか重いものだ。それは私にもわかるよ」
窓辺に改めて頬杖をついて、蜂恵は眉間に皺を寄せた。
「君もすぐに土に馴染むのは難しいだろうね」
「…でも私は土に行くのよ」
行くの。そう決めたんだから。狼娘のように、沈梅のように、私は私の国に帰る。知香にだって言われた。土まで駆けて行けって。走るわよ、私は。兎は足が速いんだから、一度駆け出したら誰にも止められない。
「ひとりでだって行くわ」